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ステイサムの主人公補正は噛みちぎれない。「MEGザ・モンスター」感想

実在した超巨大サメ「メガロドン」vsジェイソン・ステイサムで話題の海洋SFモンスター映画を見て来ました。

サメ映画を見るのは久しぶりで、最近は「シャークネード」などのイロモノ映画しかなかった印象でしたが、「MEG」はなかなかどうして、しっかり正統派サメ映画やってました。

以下、ネタバレ含みレビュー書いていきます。

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追いかけられ、足が思うに任せない悪夢

サメ映画というジャンルのホラー界における存在意義として、海を舞台にすることで、人間の身動きが圧倒的に制限されてしまうという点があげられると思います。

よく何かに追いかけられる悪夢を見る時、全速力で走っているのに足がついてこないということがあると思いますが、水の中でサメに追いかけられるというのはまさにこの悪夢の状況そのものなんですね。

実際問題として、「サメ」というのは他のホラー映画のモンスターと比較すれば特に強いというわけでもなく、いくら大きくても銃で死ぬし、知能も低い。

しかし、水中で身動きがとれず、しかも遮蔽物も何もない海のど真ん中で、自在に泳ぎ回るサメに襲われるという恐怖は、陸上でどんな強力なモンスターに襲われる状況と比較しても相当に大きなものです。

しかしこの恐怖感を演出しようとすると、その方法はかなり限られてしまい、そのほとんどはスピルバーグ監督の傑作「ジョーズ」で最初からやり尽くされてしまった感もありました。

 

そんなサメ映画の後輩たちが偉大すぎる先輩から独り立ちするために編み出した手段こそ「メガシャーク」であり「シャークネード」であり、ある意味では革新的なシリーズだったわけですが、もはやホラーとしての体はなしていません。(好きですが)

この「MEGザモンスター」は、久方ぶりに真っ向勝負の正統派サメ映画として、偉大な先達に迫ることができるか、という点がまずひとつの見どころと言えます。

 

ステイサムの安心感と、反比例する脇役の不安感

本作の主演はご存知ジェイソン・ステイサム。

「トランスポーター」「エクスペンダブルズ」などでお馴染みの、基本出てくると死なない系オヤジです。

とにかく服は脱いでも主人公補正は脱がないステイサム。

劇中、ステイサムがメガロドンに向かって生身で泳いでいくというひどい場面があるのですが、その時でさえただよう安心感たるや。

下手すると勝ってしまうのではと逆にハラハラします。

あ、各所で言われていますが、元飛び込み選手だったステイサムのフォームはやはり綺麗でした(笑)

あと、子供に見せる笑顔がイイですね。

 

そういう意味では、「主人公の危機にハラハラする」という場面においても我々はステイサムに全幅の信頼を置いて見ていられるので、ホラーの醍醐味もなにもあったものではありません。

ただ、その副作用というか、脇役の死にそう度がいっそう際立つ結果となっており、そっちではなかなか気を揉ませるのがうまい演出となっています。

 

もっとも、一番ハラハラしたのがワンコがメガロドンに追いかけられてる場面だったので、不安を煽る演出がうまかったかと言われると「それなり」というしかありません。

逆に言えば、あまり気を張らずにポップコーンをぱくつきながらでっかいサメが暴れるさまをながめられる映画ということもできますね。

 

 

ふんだんに投入された最新海洋SFガジェット

でかいサメはそれだけで見ていて飽きませんんが、この映画のもうひとつの見どころとして近未来的な潜水艇などのガジェットの魅力があります。

昔はガンダムでしか見られなかった全面モニター式の操縦席が、ほとんど現代の設定の作品で違和感なく投入されているのがたまりませんね。

もっとも、このモニターはホラーとしてみると閉塞感に欠けるので、やはり近未来海洋サファリ体験として見たほうがこの映画は楽しめるような気がしてきました。

クジラもいるしね!

 

それにしても、この洗練された最新ガジェットを運用して違和感のない中国。

「神舟」計画で宇宙分野での技術の大躍進を見せつけた中国ですが、いまやハリウッドの認識においても最新ガジェットの担い手というイメージへと変わってきているんですね。

「トゥームレイダーファーストミッション」における日本を扱う手つきの雑さと対照をなしているような気もします。

 

凡作ながら安心してサメを眺められるサファリ映画

総評としては、久々の正統派サメ映画として手堅く作ってある反面、突出した部分もない「良作」どまりの映画という印象でした。

ただやはり売りであるメガロドンの巨大な「口」の演出は、巨大なものへの根源的な恐怖と興味を煽りますし、古代に実在した怪物を現代文明と出会わせるという意味での画面作りは大成功していたと思います。

特に海水浴中の人々の真下をよぎる巨大なメガロドンの影という空撮にはワクワクしました。

すれっからしのオタクには恐怖感は足りない作品だと思いますが、そうでない人には十分怖い良質なサメ映画かと思います。

 

「正義」と「真実」、どちらをとるか?「検察側の罪人」感想

木村拓哉と二宮和也のW主演で話題沸騰、原田眞人監督の最新作「検察側の罪人」を見てきました。

この記事では、実際に見て感じたこの映画の魅力を、極力ネタバレなしで書いていきます。


キムタクとニノの対決はどうだったか?

なんといってもこの映画を観る動機として1番あげる人が多い点は、キムタクとニノの共演だと思います。

2人の演技対決はどうだったか?

結論から言えば、素晴らしかった!

今作で2人が演じるのは検事。

木村は上司、二宮は駆け出しの部下として、共に働く間柄です。

二宮演じる沖田は、木村演じるエリート検事最上の正義を継ぐと自負しているほど彼に心酔しています。

最上もまた沖田の能力を買っていて、2人は理想の上司と部下といえる間柄です。

この2人の関係が、発生した殺人事件の調査線上に浮上した松倉という人物を巡り、ゆっくり狂い出します。

最上は法に逆らってでも自分の正義を貫こうとし、沖田はあくまで真実を重視すべきと主張します。

キャラクターとしては、木村は厳しくも激することのない大人の男、二宮は駆け出しながら有能、しかし時に感情に任せて激する若手という感じ。

あくまで木村が上というスタンスではありますが、しかしニノの、被疑者を前にした時のくせ者感もまた印象深く、ただの木村の子飼いという感じは全くありません。

そして木村拓哉もまた新境地といった演技で、今作の木村は全くヒーローとは程遠い存在です。

一見スマートでやり手のエリート検事の役どころかと思えば、中盤から後半にかけて、こんなキムタク見せていいのか、というような「激しい」演技を見せています。

はっきりいって、かっこ悪いんです。

この映画の根底に関わるシーンなのでネタバレなしでは説明できませんが、この「かっこ悪いキムタク」なくしてこの映画のテーマは語れなかったと思います。


名匠原田監督が選んだ今作のテーマ

この映画のテーマは各所で「正義とは何か」だと語られていますが、僕が見た印象はちょっと違っていて、「本当の正義なんてあるのか?」というほうがしっくりくるのです。

劇中、木村演じる最上は、松倉を裁きたいあまりに「ある行動」を起こします。

この行動を糾弾するのが本作の二宮演じる沖田の役どころとなるのですが、彼は「真実こそが正義」と信じていて、敬愛する最上を相手にしてもそれを曲げません。

では沖田に何ができたのか?

いや、立場を全く違えながら、同じく正義を標榜する二人それぞれに、何かをやり遂げることができたのか?

結末は実際に見てのお楽しみとなりますが、ここではその2人の「正義」を取り巻く不穏な背景にだけ言及しておきます。


今作で登場する不気味な犯罪者、松倉。

しかし、さらに不気味で巨大な存在が随所に顔を見せます。

最上の親友、丹野議員が戦う相手、高島グループです。

太平洋戦争を肯定し、日本を戦争国家に戻そうという思想を持つ勢力ですが、こんな思想の持ち主が実際に政局の重要な位置を占めているという危機感が、この映画の通奏低音のように流れています。

「悪」はどうしようもなくはっきりと見えています。

しかしその悪に対する正義の姿が見えない。

確かだと思った正義を成そうした時、気づけば自分も悪の側にいる。

「ただ一つの確かな正義」を求めたときに起こるこの矛盾、その危険性こそ、この映画最大のテーマなのかもしれません。


同じく「正義」を求めながら、最上も沖田も最後まで振り回され、行動は首尾一貫せず、頭を掻きむしって苦悩します。

その様はドストエフスキー「罪と罰」の物語に酷似しながら、しかし非常に現代的でもあります。


キムタクとニノの「対決」として売り出される今作ですが、それはある意味間違いありません。

しかしこの2人は強い信念を元に行動するものの、その行動のもたらす結果に戸惑い、迷ってばかりいます。

さらに独自の目的を持ち動く橘(吉高由里子)、独特の原理で動く裏社会の執行者ともいうべき諏訪部(松重豊)らも絡み、世界の複雑さ、複層性が描き出されます。

単純な信念の対決という構図だけでは測れない、「悪」との戦いが「正義」には難しくなってしまった社会。

それが、この「検察側の罪人」が描き出した現代社会の姿でした。












「ガーディアンズオブギャラクシー」シリーズをやっと見た

9月5日から「アベンジャーズ/インフィニティウォー」のレンタルが開始されるので、それまでになるべくMCUの見逃しを潰しておこうと思い、とりあえず「ガーディアンズオブギャラクシー」2作を立て続けに観ました。

ちなみに「インフィニティウォー」は劇場で観るつもりだったのに、その前に「ガーディアンズオブギャラクシー」を見とこうとしたら考えることはみんな同じで常にレンタル中。

結局上映期間を逃した愚か者です。

 

食わず嫌いしてたワケ

なんでガーディアンズオブギャラクシーをスルーしてたかといえば、ぶっちゃけ僕はアメリカのコメディタッチ作品を食わず嫌いするケがありまして。

しかもキャラクターの肌が青かったり緑だったりで、何となく「チープなSF」感を感じて触手が伸びなかったんですね。

しかも公開当時はこのシリーズがMCUに関わることすら知りませんでしたw

ということで、正直「インフィニティウォー」のための消化試合くらいの気持ちで見始めたんですが。

なにこれめっちゃ面白い……。

いやあ、想像の遥か上をいく完成度。

自分の中ではMCU中暫定1位じゃないかなってくらいでした。

 

昔のパルプSFを思わせながらも古さを感じさせない極彩色の宇宙。

異様に立ちまくるキャラクターの個性。

くだらなくもハイセンスすぎる笑い。

どう考えてもアンマッチなのになぜかマッチしすぎる80年代の名曲たち。

観る前に食わず嫌いしていた部分がほとんどそのままよかった部分としてあげられてしまう。

 

キャラが良すぎ

特に好きだったのは青顔のオッサン、立木文彦の声が宇宙一似合う男ヨンドゥですね。

北斗の拳なら真っ先にひでぶされそうな見た目なのに、なんですかあの出鱈目な矢みたいな武器は。

まるで群衆の写真集に子供が線で落書きするような、とにかく理不尽な殲滅力に驚きました。

あのシーンで一気に好きなキャラに躍り出ましたね。

「リミックス」でも矢のアクションはたっぷり堪能できました。

 

それからアライグマのロケット。

イケメン。

1ではまだマスコットっぽい可愛らしさも見せていましたが、リミックスではグルートの保護者という立場もあって完全にイケメン化。

またデタラメに強いし機械にも明るいで頼れるんですよ。

ついて行きたくなるアライグマですね。

 

グルートは1とリミックスでほぼ別人扱いですが、チビグルートが異常に可愛い。

性格が元のグルートと全然違うのが面白いですね。

エンディングでグレてたのが気になりますがw

原語の声はなんとヴィン・ディーゼル、吹き替えが遠藤憲一という豪華さですが、なんとチビグルートもエンケンさんのままなんですな!

どうりで声がキモカワだったわけで。

 

冒険の舞台が良すぎ

このシリーズの魅力の一つは、文字通り宇宙を股にかけて色々な星が舞台になるところですね。

特に「天界人」という巨大な種族の遺骸がそのまま遺跡となった「ノーウェア」は圧巻。

またリミックスで訪れる「エゴ」の星の風景は、「イバラードの世界」を彷彿とさせる極彩色の楽園です。

 

物語が軽快

物語も、何気に重いテーマを扱いながらあくまで軽快に進むのが気持ちよかった。

これ、今流行りのポリコレとは真逆のスタンスながら、実は究極のポリコレ作品なんじゃないでしょうか。

みんなちがってみんないい、しか許されないなんてことはなく、キャラクター達はお互いの外見を馬鹿にしたり気にしたり遠慮なく振舞いますが、それでも仲間であることには違いないという。

リミックスで、ドラッグスがマンティスのことを散々「醜い、醜すぎる」と正直に伝えながら、しかしそれは罵倒でもなんでもなく、2人の間の絆には何の支障もなかったというのは、ガン監督なりの世界観をもっとも表しているように感じました。

 

ジェームズ・ガン監督解任が残念すぎる

2作見終えた今、返すがえすもガン監督解任が惜しいし、納得もいかない思いです。

経緯をチラ見した感じでは、確かに不適切な言動が昔あったようですが、しかし10年前の、別に誰か特定の人を傷つけたわけでもない、本人も悔いていることを明言している発言です。

どうもトランプ政権をめぐる不毛な言説合戦に巻き込まれ、不要なトラブルを嫌うディズニーの潔癖症が発揮されたという印象です。

言説を見るというなら、この「ガーディアンズオブギャラクシー」シリーズ以上にガン監督の思想を表現した言説もないだろうに。

「ブラックパンサー」で黒人に関する表現の歴史がひとつ進む一方での今回の「ガーディアンズ」の挫折。

アメリカはもう以前の自由の国とは様変わりしてしまったということを実感しますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

製作総指揮とは何か?「映画そこからですか!?」①

こんなブログを立ち上げておいてなんですが、僕は映画に関してド素人です。

映画自体は小さな頃から気の向くままに見てきましたので俳優なんかはそこそこわかるつもりですが、裏方の仕事などにはほとんど関心も持たず、ぼへらーっと見てきたので、映画に関する基本的な役職やら業界のことをほとんどスルーしてきました。

なので「この撮影監督の技術が!」とか「今回はプロデューサーがいい仕事した」とか、そういういかにもなオタクトークができないんですね。

せっかく映画ブログはじめたのにこれは悔しい!

ということで、この機会に(?)何回かに分けて映画の常識的な事柄について、池上彰的にほんとの初歩から調べてまとめてみようと思います。

 

第1回は『「製作総指揮」とはなんぞや?』です

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映画における「制作総指揮」

よく映画の予告を見ると、デカデカと「製作総指揮スティーブン・スピルバーグ」とかうたわれてますよね。

この「製作総指揮」は一体何をする人なのか?

ちなみに「製作」とは一般的にプロデューサーのことを指すようです。

では「製作総指揮」は文字通りプロデューサーを指揮する立場?

この解答は当たらずとも遠からずといったところのようです。

「製作総指揮」は、横文字にすると「エグゼクティブプロデューサー」となりますが、この役職は映画に限らず、音楽やテレビ番組にも存在します。

それぞれの業界で「エグゼクティブプロデューサー」の役割はかなり違うようですが、ここでは映画に絞って話をしていきます。

 

「制作総指揮」=出資者

映画製作における「製作総指揮」の立場とは、おおむね「主な出資者」であることが多いようです。

「おおむね」というのは、やはり作品によって役割にかなり幅があり、出資だけして作品にはノータッチな人、作品についての権利を持っていて名前だけ貸している人もいれば、作品についてかなり口出しする人もいるようです。

製作総指揮というだけあって権限は大きく、監督含めキャストやスタッフに関する決定権も持ちます。

 

さきほど例にあげたスティーブン・スピルバーグについては、例えば「ジュラシックパーク」では監督を務めましたが、近年の「ジュラシックワールド」シリーズでは製作総指揮としてクレジットされています。

ここでは大まかな構想やイメージを元に監督の選出などには関わっているみたいですが、立場としては出資者兼名義貸しの意味合いが強いようですね。

例え直接製作に関わっていなくても、スピルバーグがバックについてるという安心感がプロモーションにも効果的なんでしょう。

 

口を出す「制作総指揮」

日本でパッと思いつくのは、「ワンピース」の劇場版ですね。

途中の作品から原作者尾田栄一郎が「製作総指揮」として関わることが発表され、作風も変化していきました。

これについては尾田栄一郎は製作全般にわたってかなり関わり、またストーリー原案や設定画も提出するなど、「製作総指揮」を文字通りに体現するような活躍をしたようです。(ここまでいくと「プロデューサー」そのものという感もありますが)

 

このワンピース劇場版以降、ジャンプ系アニメ劇場版では「ドラゴンボール」で鳥山明が、「BORUTO」で岸本斉史が製作総指揮にクレジットされるなど、原作者を製作総指揮として大々的に打ち出して作品の質を担保しよう、というふうにも取れるプロモーション手法が目立ってきたように思います。

特に漫画原作の劇場版アニメでは原作と違うオリジナルストーリーになることが多いため違和感を感じる原作ファンも多く、原作者をバーンと制作総指揮として打ち出すことでそういったファン層を取り込むことも狙っているのかもしれません。

この「製作総指揮」という肩書、「大仰な響きだけど特に具体的に何やる人か決まっていない」というところがミソで、映画そのものに関しては素人のはずの大御所を作品にクレジットするのに役立つんでしょう。

 

このように、同じ映画業界の「製作総指揮」でも、日本とハリウッドで、また実写とアニメでも意味合いが微妙に違うようです。

制作総指揮、ほとんど指揮ってないじゃん!

という感想は置いておくとして。

基本的には作品のパトロンのような立ち位置をとりつつ、大御所や実績のある人物がつく場合には、作品のクオリティの「裏打ち」的存在としてプロモーションでも大々的に打ち出される役割というところでしょうか。

しかし資金不足の小さなプロジェクトではほとんど下働きみたいな役回りをする「製作総指揮」もいるそうなので、本当に千差万別なようです。

 

まとめ

映画における「製作総指揮」とは

・その作品への主な出資者

・大御所監督の名義貸し

・作品にはノータッチの場合も多いが、人事などに絶大な権限を持つ

・原作者など、たまに製作にがっつり関わる人もいる

 

次回も映画製作に関わる役職についての基礎の基礎を見ていきたいと思いますので、よろしければご一読ください。

それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「ペンギン・ハイウェイ」考察 「お姉さん」は何者だったのか?

映画「ペンギン・ハイウェイ」の感想については別記事で思いの丈をぶちまけましたので、今回はこの映画を見た多くの人が気になっているであろう、「お姉さんとは何者だったのか」を作中のヒントから考えてみようと思います。

ただし、薄々お分りの方も多いと思いますが、やはり明確に「これだ!」という結論はでない問題なので、一つの解釈としてお読みください。

なお、本作の展開に言及する部分が多いので完全ネタバレとなります。

これから観る、或いは原作を読む方はご注意下さい。

以下、ネタバレ記事です。

 

「お姉さん」=「海」=「謎そのもの」

結論から言えば、「海」も「お姉さん」も、ともに「謎そのもの」のメタファー(暗喩)です。

いや、物を投げないでください。説明します。

つまり、あれらが具体的に「何」なのか誰もわからない、わかりようがない。

そのことこそが重要な点であり、「謎」そのものとして括弧で括られる状態こそが正しい状態といえるでしょう。

もちろん、見た人が勝手に「宇宙人である」とか「深層意識が具現化したものだ」という予想を立てるのは自由ですが、作中にそれを決定づける情報はありません。

宇宙人であってもいいし、そうでなくても別にこまらないのです。

作中の「お姉さん」の最も重要な存在意義は「お姉さん」であることであり、アオヤマ君にとって魅力的な「謎」であることだからです。

原作のあとがきを読んだ人、SFを好きな人なら知っていることですが、原作者の森見登美彦は本作の「海」について、SF小説の傑作「ソラリスの陽のもとに」にインスパイアされたことを明かしています。

「ソラリス」とは、作中に出てくる惑星の名前であり、その星は全体を海そっくりの知的生命体に覆われています。

この「海」のような生命体は、知的活動を行うことまでは分かっていますが、その生態や行動原理などはどれだけ研究しても全く分からず、「ソラリス学」という学問までが誕生するほどの大きな謎として扱われています。

「ペンギンハイウェイ」の「海」はもちろんこれとは別物だと思いますし、そもそも生命体であるかも疑わしいですが、「なんだかさっぱりわからないもの」という認識において共通する存在です。

そして「海」とは全く別ベクトルでありながら、アオヤマ君の中では未知度の点で双璧を成すのが「お姉さん」です。

なぜお姉さんを見ていると幸せなのか。

なぜお姉さんの顔は僕の好きな形をしているのか。

科学の論理では説明できない始めての気持ちにアオヤマ君は答えを出せないでいます。

今作は一貫して、アオヤマ君が謎を追い求めるという構図に貫かれています。

 

「海」と「お姉さん」は連動していることが分かっており、「海」が消えれば「お姉さん」も消えてしまいます。

「海」と「お姉さん」は、同じ一つの「謎」の見せる、異なる「面」であるとも言えます。

或いは光と影、陰と陽という言い方もできるでしょう。

ともに、アオヤマ君にとって未知の存在であり、興味の尽きない研究対象である点においても、「海」と「お姉さん」は並び置かれる存在です。

 

「アオヤマ君の世界」と、埋められるべき穴としての「果て」

ところで、アオヤマ君は作中で、「海」のことを「内側に潜り込んだ世界の果て」「穴」だと看破しました。

つまりそれは「埋められるべきもの」だという事です。

世界に生じた「穴」としての「謎」あるいは「未知」。

その謎を研究し解くことこそ、アオヤマ君が「えらくなる」方法であったのです。

しかし、「謎」とは解かれれば消えてしまうものです。

謎とはつまり「お姉さん」のことでした。

劇中、アオヤマ君はそのことを予感し、研究の凍結をも申し出ています。

しかし最終的には、アオヤマ君はその謎を解かずにはいられませんでした。

謎そのものと一体である「お姉さん」は、この時点で消滅することが確定していたのです。

 

劇中でアオヤマ君が「海」の謎に気づくことになった重要なヒントとして、お父さんの「小さな袋に世界を入れるにはどうすればいいか?」という謎かけがあります。

答えとして、袋の内側を裏返して表にしてしまえば、世界は袋の裏側に入り込んだともいえるのではないか、とお父さんは説明しています。

ところでこの考え方をそのままアオヤマ君と「海」の関係に当てはめてみるとどうでしょうか?

つまり、「海」が「世界の果て」「穴」である、つまり「世界の未知の部分」であるならば、「海」の外側は全てアオヤマ君の世界であるともいえるでしょう。

世界への探究心に突き動かされて日々色々なことを知っていくアオヤマ君に、ある日最大の謎が現れます。

他でもない「お姉さん」です。

「お姉さん」の存在は、アオヤマ君の世界においてぽっかり空いた「穴」、埋めるべき「謎」であり、同時に全ての命の源でもある「海」の形をしていました。

アオヤマ君は、このあまりに魅力的な研究対象を解き明かしてしまったことで、人生で初めての「喪失」を経験することになってしまうのです。

 

「象徴」として、「人間」として

「お姉さん」の役割は、ペンギンを生み出して「海」を壊すこと、言いかえると「穴」を修復することだとアオヤマ君は結論づけました。

なぜお姉さんが生み出すのがペンギンなのかは正直わかりません。

しかし一見可愛らしく描かれるペンギンが「海」を壊すたびにお姉さんの消滅が近づくということは、お姉さんにとってペンギンを出すのは自殺行為に等しい。

対してお姉さんは体調不良の時には「ジャバウォック」を生み出し、これらはペンギンを食べて「海」を大きくします。

こうしてみると、「お姉さんは海を修復するために生まれた」というよりも、「お姉さんと海は全く同じ一つの存在」というほうがしっくりきます。

 

ところで「ジャバウォック」ですが、いかにも不気味な見た目をしていてお姉さんの体調が悪いときに出現するため、不吉な存在であるかのように描かれますが、本当にそうでしょうか?

先に述べたように、ジャバウォックがペンギンを食べるほど、お姉さんは長く存在できるのです。

「ジャバウォック」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する怪物です。

そしてこの怪物が書かれた「ジャバウォックの詩」は鏡文字で書かれていました。

「鏡の国のアリス」はご存知の通り全てがあべこべの世界です。

ということは、「ジャバウォック」と名付けられたこの不吉な怪物は、実はお姉さんの「生」を司る守護者のような存在なのではないでしょうか。

 

ペンギンは「海」を壊す、つまり「穴」を埋めていきます。

すなわち、アオヤマ君がお姉さんの存在を解き明かし、謎を埋めていく過程そのものと考えることもできます。

それに対してジャバウォックはペンギンを食べ、「海」を、つまり「謎」を大きくしてしまいます。

お姉さんという謎を日々解いていくアオヤマ君と、そう簡単には解き明かすことはできない「他者」としてのお姉さん。

ジャバウォックの存在が、ただの象徴ではない、個の人間としてのお姉さんを表現し、深みを与えています。

最終的にはアオヤマ君が「エウレカ」に至ることで「海」と「お姉さん」は消えることになってしまいますが、それはアオヤマ君にとってもまた大きな、そして初めての「喪失」となるのです。

 

失うことで得たもの

探求することが何かを失うことにつながることをアオヤマ君は知りました。

しかしラストシーンでも、アオヤマ君の冒頭

と同じセリフが繰り返されます。

彼は世界について知ることをやめません。

これまでと同じように科学的に物事を探求します。

そして、冒頭と違うことは、その探求を続けることがいつかお姉さんとの再会へと続いていると信じる「信念」が彼の中で生まれたことです。

この映画は、主人公とヒロインの関係がそのまま世界の変質へとつながる、いわゆるセカイ系の枠組みを持つ物語です。

この映画の一面の顔として、アオヤマ君という少年の内面と世界の関わり方の変化を、「お姉さん」を媒介にして描き出す成長物語だったと言えるかと思います。

 

 

 

 

 

 

お前のすい臓を喰ってやる。映画「ヴェノム」について予習。

11月2日(金)全国公開となる、新たなマーベル映画「ヴェノム」。

劇場で今作のダークすぎる予告編を目にして、「ヴェノムって何者?」と疑問に思う方もいることと思います。

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人間型をしていながら、ヴィランというよりモンスターそのものといった凶悪な造型にファンも多いキャラクターです。

この記事では、来るべき「ヴェノム」公開に備えて、ヴェノムとは何者なのかをざっくり書いていきます。

 

「ヴェノム」とは?

ヴェノムはもともと「スパイダーマン」に登場するヴィラン(悪役)です。

多くのシリーズが存在するスパイダーマンにおいて様々な解釈が存在しますが、共通しているのは

・宇宙から飛来し、宿主に取り付く共生生物(シンビオート)であること

・取りつかれたものは黒いスーツのようにシンビオートを身にまとい、強大な力を手に入れる

・ただし、自分の意思とは無関係に力を振るいはじめ、自身でのコントロールを失っていく

・人の感情を増幅させるが、多くの場合は宿主の憎しみを増大させ犯罪行為や暴力にかりたてる

という描かれ方がなされます。

映画初登場となった「スパイダーマン3」でもやはりスーツに黒い共生体が取り付き、主人公ピーターは黒いスパイダーマンとして強大な力を手に入れますが、抑制を失い恋人をも傷つけることになります。

その後、スパイダーマンを憎む記者エディ・ブロックへと取り付き、ヴェノムとして誕生、スパイダーマンと激闘を繰り広げます。

 

映画「ヴェノム」では

コミックでも映画でも、シンビオートに取り付かれヴェノムへと変身するのはエディ・ブロックという新聞記者です。

「スパイダーマン」ではスパイダーマンに対して逆恨みの憎しみを抱いていた人物でした。

映画「ヴェノム」でもやはりヴェノムとなるのはこのエディ・ブロックという記者のようです。

しかし設定はかなり異なるようで、エディは「社会の闇」を追う正義の記者のようです。

シンビオートを研究する組織を追っていたエディが、なにかの理由でシンビオートに取り付かれ、ヴェノムへと変貌します。

今作のヴェノムの一人称は「We(俺たち)」。

エディとシンビオートの共生体であることを表しています。

ヴェノムとなったエディは全身から黒い触手のような細胞を伸ばし、敵を吹き飛ばしたり身を守ります。

この黒い細胞が全身を覆うことであたかもスーツを着たような見た目となり、凶悪なヴェノムの姿となります。

敵に対し「その目玉、肺、すい臓、全部喰ってやる」と、「君のすい臓を食べたい」とは意味のかけ離れた残虐発言をするアンチヒーローっぷり。

エディは残虐な行為を抑制しようと努めながらも、その圧倒的な力の万能感に次第に取り込まれていくようです。

 

増殖するシンビオート

コミック「スパイダーマン」では、シンビオートは無性生殖によりその数を増やす存在として描かれています。

初代ヴェノムから生まれた新たなシンビオートに取り付かれたキャラクターに、連続殺人鬼「カーネイジ」や、警官に取り付いた「トキシン」などがいます。

既に今作の敵役として「人造シンビオート」ライオットの登場が明かされています。

さらに予告編を見ると、女性がシンビオートらしき細胞を刃物状に出現させているカットがあり、もしかしたら他のシンビオートも登場するのかもしれません。

「赤いヴェノム」ともいうべきカーネイジの登場も期待されていますね。

 

スパイダーマンの登場は?

ヴェノムときいてファンが何より気にしているのはスパイダーマンは登場するのかという点でしょう。

これについて監督と主演トム・ハーディは「前向き」であることを示すにとどまっています、

当初この映画はソニー・ピクチャーズが権利を保有するマーベル作品による独自のユニバースの創始を企図して作られた映画でした。

しかし「スパイダーマン ホームカミング」にてマーベル・スタジオと共同してシリーズをリブートしたこともあり、プロデューサーが「この作品はMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の付属品」と発言するなど、今後の関連を匂わす発言も目立ちます。

この流れからすれば、いずれ何かの形でスパイダーマンやMCUとの実写でのクロスオーバーも見ることができるのではないかと期待しています。

 

ともあれ、「ヴェノム」は単独作品としても異色すぎるビジュアルとアクションを誇るダークヒーロー映画であることは間違いないでしょう。

今後の展開に注目しつつ、11月2日(金)の公開を待ちましょう!

 

 

きっと忘れられないおっぱいがある。「ペンギン・ハイウェイ」ネタバレなし感想

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映画に限らず、物語を作る人間ならきっとやり遂げてみたいことの一つは、この世で最も尊い時間と空間を作品に閉じ込めることではないか。

そしてきっと、映画「ペンギン・ハイウェイ」はその事に成功した稀有な映画になっていたと思います。

 

青春映画として

世界には謎が広がっています。

クラスのいじめっ子、近所の川の水源のこと、自分自身の成長について。

そしておっぱいの大きな、大好きな「お姉さん」のこと。

小学5年生のアオヤマ君の前には、これらの不思議が大小の区別なく広がり、それらを一つ一つ丁寧に観察してノートに記して少しずつ世界を学んで行くことが彼の日課です。

「僕は大変えらく、これからもえらくなることだろう。どこまでえらくなるか見当もつかない」

彼は学ぶことに対しては迷いも躊躇いもなく、世界の謎に対して科学の子として終始一貫した態度で臨みます。

その姿はやや小学生離れしており、かといって大人の研究者としてはあまりに純粋無垢でもあります。

この映画は、そんな少年の前に確かに広がっていたとある夏についての物語です。

世界はまだ瑞々しく輝き、あらゆる謎に満ちていて、行く手にはひたすらに希望が溢れている、そういう時間。

それを見つめる多くの大人が、こんな時間が長くは続かないことを知っているからこそ懐かしく尊いと思う子供の世界。

しかし、剥きだしの世界をそのまま感じてしまうからこそ、世界は輝いていると同時に、彼らの大切なものを容赦なく奪いかねない、剥きだしの恐怖をももたらします。

作中、青山君の妹が突然「お母さんが(いつか)死んじゃう」と泣き出すシーンがあります。

また、幼いながら研究者としてのプライドを持って「海」を研究するハマモトさんは、劇中で自分の研究を失うことに対し激しい拒否反応を示します。

この映画は、人が初めて何かを失うことについての映画でもあります。

僕たちは年を経るにつれて、だんだんと何か失うことへの恐怖に慣れ、鈍感となることで日々を平穏に生きることができますが、その代償として世界をそのままの形で感じることができなくなっていきます。

この映画が描き出しているのは、人が世界に対して鈍感になる前の、剥きだしの世界だと感じました。

そして初めて何か大切なものを失うことによって、その世界は少しずつ見え方を変えていく。

そんな黄金の時間が終わるほんの少し前、二度と戻らない完璧な夏が始まり、そして終わりを告げる、そのなにより尊い時間を閉じ込めることに、この作品は見事に成功しています。

 

街中でペンギンが見つかったことから始まる青山君の研究「ペンギンハイウェイプロジェクト」。

青山君が多数抱える研究テーマの一つでしかなかったはずのそれは、やがて最愛の「お姉さん」を巻き込む奇妙な事件へと発展して行きます。

本物の研究者顔負けの科学的態度と、子供らしい愚直な純粋さで謎を研究していく青山君と仲間たちの黄金の日々。

夢中で追及するその果てに待っていたある事実。

永遠には続かない夏の日。

しかしいつか終わるとしても、それは不幸なことじゃない。 

青山君は、全てが終わったあとでもなお、大人になることを恐れませんでした。

 

SFミステリーとして

この映画のすごいところは、光り輝くような夏休みを描いた青春映画であり、世界と「お姉さん」をめぐる哲学的なセカイ系物語であると同時に、散りばめられた伏線の全てがかっちりハマり真相が導かれるミステリーとしても極上であるところでしょう。

子供の自由研究と侮るなかれ。

彼らが直面するのはペンギンの出現や、宙に浮遊する不可思議な「海」と呼ばれる物体など、既存の科学では説明のつかない不条理な現象の数々です。

それはまるで傑作SF「ソラリスの陽のもとに」の作中で人類が積み上げていた「ソラリス学」の現場を彷彿とされるような、人間の根源的な知的好奇心を刺激する内容となっています。

小学生らしい夏の日々と「お姉さん」への淡い恋心、そして密かに広がっていく奇妙な現象。

これらが一つに結びついた時、切なくも鮮烈なクライマックスシーンへとなだれこんでいきます。

エンターテイメントとしては、大人には不可思議な現象の謎を畳み掛け、子供には大量のペンギンの行進や「おっぱい」という言葉、コミカルな演技を織り交ぜていくことで、ただのひと時も退屈させることなく、しかも小学生の夏のひと時をあくまで繊細に終わりまで描き切ったこと。

絶妙なバランス感覚による匠の技だと思います。

(恐ろしいことに、ここまで大人をぼろ泣きさせる映画でありながら、終始小さな子供の笑い声が絶えない映画でもあり、僕はそのことに呆然としました)

エンドロールで流れる宇多田ヒカルの主題歌がまた作品の不可思議さ、透明感にあっており、鑑賞後の余韻も完璧でした。

ちなみに、この映画ではお姉さんのおっぱいが実に強調されていますが、エッチなものというより何か神秘的な神々しい存在として描かれているので全くいやらしくはないです。

今後の夏映画のスタンダードになり得る傑作

今、夏休みにテレビで流される映画といえばジブリ細田守作品、近年は「君の名は」なども加わり定番となっていますが、それらのラインナップに必ず加わることになる新たな傑作だと僕は確信しています。

きっとこれから作品に関する多くの言説が溢れた来ることと思います。

文句なしのこの夏、というかオールタイムベスト級です!