怪盗シネマ

cinema,book,boardgame

ニュータイプの負の歴史を背負った若者たち。「ガンダムNT(ナラティブ)」

f:id:rupankit:20181204150012j:plain

「ガンダムNT(ナラティブ)」2018年。

吉沢俊一監督。

ヨナ:榎木淳弥、ミシェル:村中知、リタ:松浦愛弓、ゾルタン:梅原裕一郎。

1988年公開の「逆襲のシャア」のその後から始まる「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」。その中で描かれた「ラプラス事変」終結の1年後の物語。

「UC」はバナージ少年の成長物語であるとともに、ニュータイプをめぐる人類の葛藤についての物語でもあった。その直後からはじまる今作では、ニュータイプについてのより具体的、実利的な側面に注目し利用しようとする者たちが描かれる。

「UC」においては、「ニュータイプ」とは人類の宇宙時代への祈りのようなものであり、希望であるとされた。しかしニュータイプ研究所による強化人間など、ニュータイプの戦闘能力のみに着目した人々によって実験を施され、人間性の喪失や命そのものも奪われる人々の負の歴史は確かに存在した。

本作では、ニュータイプの負の歴史を背負わされて今なお苦しみながら生きる人々が、ニュータイプが希望とされた世界で過去と対峙する物語となっている。具体的には、主人公の3人、ヨナ、ミシェル、リタは幼い頃に「コロニー落とし」による被害を感知したことで「奇跡の子供たち」と呼ばれ、ニュータイプ研究所に連行されて非人間的な人体実験を繰り返された過去がある。

主人公3人の複雑な三角関係を中心に、敵役であり「赤い彗星の再来計画」の失敗作である強化人間ザナタンの来歴も含め、「ニュータイプの呪縛」に翻弄された主人公たちが過去と向き合う模様が描かれるストーリーとなっている。

ニュータイプがサイコフレームに魂を定着させる能力に着目し、これを応用すれば人類は不老不死になれるのでは、といったSF的なアイデアが提出されたり、「ニュータイプは感染する」という新たな設定が飛び出したりと、福井晴敏の考えるニュータイプは富野ガンダムが投げたニュータイプ概念をヒントに、より独自の概念となりつつあるように感じる。というか、ほとんど超能力者と変わらない。この辺の設定の扱いは熱心な富野信者、宇宙世紀信者にどう受け止められるのか気になるところだが、まあガンダムの設定があとから書き換えられていくのは今に始まったことではない。

映像としては「UC」で描かれた「リアルで重厚なモビルスーツ戦」をベースに、現在のロボットアニメとして最高峰と思われるクオリティで描かれている。コクピットにエアバッグが装備されていたり、ビームライフルがまるで長いビームサーベルのように描かれているのが「UC」の特徴だったが、そのあたりの描写は健在。

さらに今作ではユニコーン3号機「フェネクス」の到底パイロットが耐えられないはずのデタラメな機動(最高速では光速に近くなる)などが見所。

ちょっと気になったのは、サイコフレーム搭載機同士の戦闘が描かれる設定上、各機が当たり前のようにサイコフィールドを投擲武器として投げ合うのだが、この原理不明の魔法か超能力のような力をバーゲンセールのように使ってしまうと、もはやロボットアニメとしてのメカニズムに対する設定考証はあまり意味をなさなくなってしまうのでは、とチラッと思いもした。やってることはドラゴンボールの気弾の投げ合いなので。

ラスボスもまたネオジオングなので、その辺もちょっと新鮮味に欠け、敵であるザナタンもよくいるコンプレックスこじらせ系イカレ男といった感じで、フルフロンタルなどに比べても格が一枚落ちる感が否めない。

良くも悪くも「UC」で創出したメカ設定をいじり倒したような作品。

あと個人的にはミシェルが新たなガンダムクソヒロイン列伝に名を連ねてしまうのではと危惧している。

しかし久々の1話完結のガンダム劇場作品(F91以来?)として、ミニマムな人間関係の物語を軸として戦闘シーン中心の作劇で2時間でしっかりまとめあげた監督と脚本の力量は本物。ガンダム好き、「UC」好き、ロボアニメ好きは必見の作品となっている。

「あいつ」も出るよ!

(ちなみに、スタッフロール後にもお楽しみがあるので、これからご覧になる方は最後まで見ることをおすすめします)

 

 

 

戦争に閉じ込められた男たち。「フューリー」感想

ããã¥ã¼ãªã¼ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

「フューリー」(「Fury」)2014年。

デビッド・エアー監督。

ブラッド・ピット、ローガン・ラーマン、シャイア・ラブーフ他

 第二次大戦末期、ドイツ軍に包囲されながら進軍する連合軍の戦車小隊。彼らの戦闘と人間模様を、凄惨で泥臭い戦闘描写の中で描いていく。

 見所は戦車を存分に活かした戦闘シーンで、実際の戦車戦を目にしているようなリアルな描写。当たる弾丸の種類によって人体の損壊の様子が千差万別となっていて、グロいながらも説得力のある映像だった。戦車の主砲を直撃された人体が、文字通り吹っ飛んで跡形もなくなるなど。

特筆すべきはやはりドイツ軍の文字通りの虎の子、ティーガー戦車との戦いだろう。相手にはこちらの弾は通じず、相手の弾は一撃でこちらを粉砕するという絶望感。このシーンの音楽がまた、ラスボス感があってたまらない。

 余談だが、少し前に「バトルフィールドⅠ」で戦車戦を体験できるシナリオをプレイした。あのゲームでは戦車同士の戦闘は相手の側面を取り合うように動くのがセオリーなのだが、この映画でもやはり装甲の薄い箇所を狙って相手の側背面に回り込むような挙動になっていて、逆に「バトルフィールドⅠ」の戦車戦のリアルさを感じてしまった。 

 戦争という閉じた世界へ

この映画では、ローガン・ラーマン演じる「まともな感覚を持った」新兵ノーマンを通じて、観客もまた通常の倫理感を持ったまま非日常の世界である戦争へと連れ去られたかのような体験をすることになる。最初は無抵抗のドイツ人捕虜を殺すことに必死で抵抗し、自身の倫理観を手放すまいとしていたノーマンだが、仲間と状況に流され、次第に殺人への抵抗感を忘れ、戦闘に前向きになっていく。

 この映画で最も退屈で、しかしたぶん映画のテーマとしてはもっとも重要なのが、中盤のドイツの女性エマとドン、ローガン、小隊のメンバーのやりとりのシーンなのだろう。制圧した街で、女性を相手に紳士的にふるまい、束の間戦場を忘れようとするドン。それを「おままごと」と吐き捨て、戦争こそが現実だと断言する小隊メンバー。

目に見えない速度で飛来する無数の銃弾によって、自身が死んだことすら認識する間もなく、あっけなく命を失いかねない戦場にあって、倫理や人間性はあまりにも役に立たず、それを守るには人間は脆弱すぎる。

日常生活において美徳とされる倫理は、戦争に放り込まれ兵士となった人間にとっては180度反転し、殺人と獣性こそ身を守るたしなみと化す。長い戦争を戦い抜いてきたドンは、偶然訪れた平和な家と美しい女性を前に、「戦争外の世界」を束の間夢見るが、仲間たちによって「そこは現実ではない」ことを悟らされてしまう。

 クライマックスに至るシーンで、なぜドンがああも頑固に任務に固執したのか、首をひねった観客も多いのではないか。僕もそのひとりではあるが、ドンがすでに戦争以外の場所で生きることが考えられなくなっていたのだとしたら辻褄は合うのではないかと思う。おりしも戦争は終わりが近づきつつあり、ドイツの部隊のひとつやふたつ、大局には影響しようがない。普通に考えれば放ってやりすごせばいいものを、わざわざドンはたった戦車1台、それもキャタピラーがれて動けない戦車のみで迎撃すると決意した。

どう考えても、この決断は自殺以外の何物でもない。理由も特に語られない。

「それが俺たちの任務だ」

「ここが俺の家だ」

実際、それ以外の理由らしい理由はないのではないか。いくつもの戦場を生き抜き、仲間を導いてきたドンは、しかしあの家で、もう自分が平和の中で生きることができないと気づいてしまったのではないかと思う。

 最後の戦闘の間際、「マシン」という「洗礼名」を与えられたノーマンもまた、ドンの自殺に付き合うことを決める。彼は結局最後まで生き残り、友軍から「英雄だ」と称えられる。その台詞の空虚な響きと、残骸となった「フューリー」号を背景に、映画は終わる。「マシン」となったノーマンが人間性を取り戻せるのかは描かれない。この映画に「戦争」の外の世界は存在しないかのように。 

 ちなみにこの映画のメインキャストのうち、ローガン・ラーマンもシャイア・ラブーフもユダヤ人である。彼らがナチス・ドイツ相手に銃弾を撃ちまくるという構図も、「フューリー」というタイトルにふさわしいような。

「フューリー」というタイトルの通り、全編を通して怒りがぶっ放され、全てを燃やし尽くし、そして燃え尽きたあとの焼野原で立ち尽くす、そんな映画である。

 

 

 

 

 

「96時間リベンジ」に見るアルバニアの「負の慣習」

f:id:rupankit:20181109021603j:plain

「Hulu」で「96時間リベンジ」(原題「TAKEN2」)を見ることができたので、1作目を見て面白かったのに続編を未見だったことを思い出し、さっそく見てみました。

 とにかく安定して面白い「ザ・ハリウッドアクション」という感じで、本作でもリーアム・ニーソン演じる主人公が悪党どもをほぼ一撃で屠っていきます。

リーアム・ニーソン、僕が初めて認識したのはスターウォーズ「ファントム・メナス」だったんですが、まさにナイトといった高貴さと強さを感じさせる上品な役者という印象を持ったんですが。

年齢を重ねるごとになんかワイルドさを増し、今やハリウッド最強を堂々と争える漢となってしまいました。

「熊さんみたいで可愛い」という声も巷にはあるそうですが、例えば彼がプーさんの着ぐるみを着て愛想を振りまいたとして、グリズリーの突然変異以外に見えるかは疑問です。 

リーアムファンの方、ごめんなさい。

こんなこと言ってますが、僕はリーアム好きです。

 

主人公は元CIAの凄腕で、今は要人警護などをしています。

彼は悪党どもを震え上がらせる「特殊な能力」を持っていて、要は超強くて、前作では娘をさらった悪の組織を一人で皆殺し、今作でも妻と自分を狙った組織を一人で皆殺しにします。

「イコライザー」のマッコールといい、アメリカ人は元CIAを改造人間かなにかと勘違いしている気もしないでもないですが、まあ「元CIAはすげえ強い」という共通認識はわかりやすいので、娯楽映画には使いやすい設定ですよね。

アクションもいいですが、自身が拉致されて、娘の協力で連れてこられた場所を特定する場面も見ていてワクワクしましたね。

娘に向かって「そこらへんに手りゅう弾を投げろ」とイカれた指示を飛ばすんですが、その爆発音が自身に届くまでの時間でホテルからの距離を割り出すという。

対人アクションだけでなく、変則的ながらこういう追跡劇も見ごたえがあり、また娘をドライバーに据えた「世界一おっかない路上教習」ともいうべきカーチェイスも、なんだかんだ娘がだんだん慣れてきてテクニックつけていくのが親子なんだなあとほっこりしたり。

そのまま大使館にぶっこんでいくのはちょっとロックンロールすぎますが。

 

「血の復讐」ジャクマリャ

ところで、映画の最中ずっと妙に気にかかっていたのが、敵であるアルバニア人の組織が、異様に復讐に執着しているところでした。

今作の敵は、前作でブライアンの娘をさらい、ブライアンに殺されたマルコという男の父親で、ブライアンと家族を拉致して復讐をとげようと画策します。

もちろん息子を殺された父親という立場もわかるんですが、映画冒頭で写されるトロポヤでの前作の悪党どもの集団葬儀で、女性達も含めて村ぐるみで復讐を誓っている様子が、もはや私怨という範疇を越えて、なんだか土俗的なにおいまで帯びている気がしまして。

親族とはいえ、女の子をさらって売り飛ばすような稼業をしている犯罪組織の連中ですよ。

いつどこで野垂れ死んでもおかしくない商売柄なのに、残された遺族がこうまでも一丸となって復讐にこだわるものなのかと。

で、映画が終わった後に何げなく調べてみたら、アルバニアにはとある「掟」が今なお生きているということでした。

「カヌン」と呼ばれる、アルバニア氏族に古くから伝わる、生活にまつわる事柄を細部までさだめた「掟」。

その中に、「ジャクマリャ」、「血の復讐」とか「血讐」などと呼ばれる項目があります。

内容は、「一族の人間が殺された場合、その犯人の一族の男性を復讐として殺せる」というものです。

これは「法律」ではなく、それ以前の、あくまで集団の中の「掟」なのですが、政変などにより長い間治安が不安定なアルバニアでは、この「ジャクマリャ」がまかり通り、今でも子供を含む多くの男性が復讐を恐れて隠れ住んでいる現実があるそうです。

www.afpbb.com

シリーズ通して主人公ブライアンを狙うアルバニア人組織の執念の背景には、こういった民族的な慣習の背景もあるようですね。

 

今作の主人公ブライアンと敵のアルバニア人の戦いをあらためて俯瞰してみると、どちらの動機も「家族を守るため」「家族の復讐のため」という、家族の存在が動機となった戦いです。

劇中で、ブライアンが殺した前作の悪党の父親に「娘をさらったから殺した」と言い、父親が「理由なぞ知るか!お前が息子を殺した!」と言い返すシーンがあります。

一見、敵の父親のほうが無茶苦茶で、ブライアンには正当な理由があるようにも見えますが、「自分の家族のために他人の家族を殺す」という点において両者は同レベルにあるとも言えます。

この映画で描かれているのは、正義対悪の戦いなどではなく、アルバニアにおける「血の復讐」の連鎖のような、どこまでも果てしない報復の連鎖です。

クライマックスでブライアンは、敵のボスに「もうこんなことは疲れたんだ」と、復讐の連鎖を終わらせることを提案しますが、結局はそれも裏切られ、つまるところひとつの状況が終わったに過ぎないことがわかります。

ブライアンはこの先も家族と自分を組織の復讐から守っていかなければならないし、それがまた復讐を呼ぶでしょう。

戦争が、現代においてもなお起こり、終わらないのは、つまりはこの映画のような連鎖に陥って歯止めが効かないからという部分もあるんだろうなと思います。

そういう意味で、この映画の「戦い」はとても原始的で、根源的なものであるのかもしれません。

まあ、そんな深いこと考えてみる映画でもないので、イスタンブールの街並みをバックにリーアムが悪党をちぎっていくのをポテチでもつまみながら眺めてるのが最高に楽しい作品だと思います。

「96時間リベンジ」は、今なら前作「96時間」と一緒に「Hulu」で配信してます。

 

 

 

 

 

 

今日のマッコール日記。「イコライザー2」ネタバレ感想

アントワーン・フークワ監督、デンゼル・ワシントン主演「イコライザー2」を見てきました。

元CIAの凄腕エージェントで、死を偽装して抜け出し、今は穏やかな日常を送るロバート・マッコールを描くアクション映画のシリーズ第2作。

アメリカのテレビドラマシリーズ「ザ・シークレット・ハンター」を原作としていますが、今シリーズは続編ではなくリメイクとなります。

以下、ネタバレにも触れながら感想を述べていくので、未見の方はご注意ください。

www.youtube.com

相変わらず美しいテキパキ殺人

なんといってもシリーズの売りである、「瞬時に段取りを組んだ上で反撃を許さず瞬時に制圧する」アクションは健在でした。

今作ではマッコールはほとんど傷らしい傷を負っていません。

今作では敵もまたかつてCIAで同じチームを組んでいた殺しと戦闘のプロなのですが、前作のロシアマフィアのほうが何かと健闘していました。

ほんとに、手際が美しいとしかいいようがなく、熟練の料理人の仕事を眺めているかのような気持ち良さがあります。

苦戦しない、というのはこの映画に関して言えば正解かもしれなくて、この仕事の手際が邪魔されてしまうよりは、マッコールにはひたすら気持ちよく仕事に没頭していただくほうが見ていて楽しいんですね。

だから、手に汗握るアクション、というよりは仕事人の仕事を愛でる映画と言えるでしょう

 

2作目の宿命を突破できなかったか

ただ、全体的な評価はというと、あまり高くは付けられないなという感想です。

前作「1」の面白さと衝撃は何によってもたらされたかというと、

 

1、テキパキアクション

2、マッコールのストイックな生活と苦悩、隣人との交流

3、ナメきった態度の悪党をブチのめす快感

4、ホームセンターでの残酷無惨ホームアローン

 

という、大雑把にこのあたりの要素かなと思うんですが、映画の方向性としては「2」もあまり変わっていません。

監督も脚本も続投のうえ、元々テレビシリーズであった作品なので、当たり前と言えば当たり前なのですが。

では、この辺のウリが「2」でも堪能できたかどうか?

そうでないならば、新たな方面の魅力を発掘できていたか?

結論からいえば、「1」での魅力はやや色褪せ、「2」独自の新たな魅力も今のところ見出せません。

まず、「2」の宿命として、まずマッコールにあまり謎がない。

正体も強さも観客はよくわかっているし、前作のラストである意味吹っ切れたマッコールは、今作では「途方に暮れた目」をしていません。

前作では少女アリーナと「お互いに行く末が見えず途方に暮れている」という共通点から不思議な交感を交わしていたマッコール。

今作でも夢に惑う黒人少年との交流はあるのですが、今回は完全に上からの大人目線。

姉の絵を取り戻したいお爺さんという隣人キャラもいるのですが、いまいち交流というより話を聞いてやって、あわよくば助けてやろうという「下心(?)」が見えてしまうんですね。

この辺の隣人との付き合い方の描写は、断然前作のほうが丁寧で情感に溢れていたように思いました。

ああ、序盤のタクシーに乗ってくる客たちの人生模様的なシーンは、なんとも味わいがありましたね。

マッコールの魅力って、あのタクシーの乗客をミラー越しに見つめている時のような、絶妙な距離の取り方にあるんじゃないかと思います。

その点「1」ではよくわかっていて、その関係性を一歩踏み込むかをマッコールが苦悩するシーンなんかもあって、とてもよかった。

 

3の、「ナメきった悪党をブチのめす快感」は、脚本上の宿命でしょうが、ほとんどなくなってしまいましたね。

今作のマッコールはわりとアグレッシブに敵地に乗り込んで開幕ワンパンするスタイルなので。

なによりメインの敵が元同僚なので油断のしようがないし、むしろマッコールのほうがサイコパスばりに敵の子供と目の前で笑顔で抱き合ったりして脅しかけていくほうです。

なんで、お話としてのラインは復讐劇であるにも関わらず、「倍返しだ!」的なカタルシスはほとんど感じられない。

さりとてプロ同士の高度な頭脳戦や鍔迫り合いがあるかといえば、結果的にはマッコールがいつも通り上手にさばいてしまうだけなので、なんとも微妙な感じです。

 

マッコールの日常は続く

トルコやベルギーに飛んだり、CIAが絡んできたりと舞台立てが壮大なので、この映画は一見国際謀略ものに見えてしまうのですが、よく考えなくてもひたすらマッコールという男の生活の物語です。

日記といってもいいかもしれない。

「今日は女子をレイプしたヤク中どもをぶちのめした」

「今日は壁の落書きを消した」

という感じで、悪党退治と街の掃除が並列するのがマッコール日記の特徴。

ストイックな彼の日記は、たとえ親友のスーザンが殺されたとしてもそのスタイルには影響せず、もちろん深く悲しみはするし、仇も討つんだけど、それはやはりいつもの日常一風景です。

「今日はスーザンを殺した野郎をぶち殺した」というページが綴られるだけ。

なぜそんなふうに見えるかといえば、今作のマッコールにおいては、最初から最後まで彼のスタンスに何の動揺も変化も見て取れなかったからです。

場面場面では悲しみもするし怒りもする。

でも彼の中で決定的なものはすでに出来上がってしまっていて、それはたとえ元相棒だった相手を殺そうと揺るがない。

そういう人間はたしかに見ている分には頼もしいし、この映画の「仕事人を愛でる」というコンセプトには合うのかもしれませんが、この脚本上のスタンスが、この映画を駄作とまではいかずとも、傑作に届かせかねている要因な気がします。

 

こうなると、アクション面で前作を超えていかないと前作越えは難しいのですが、今作にはあの「ホームセンターの賢い使い方・殺人編」ともいうような、地獄のホームアローンのような豊富なアイデアやトラップは息を潜め、マッコールはほとんど肉弾戦で敵を倒してしまいます。

終盤の銛発射や、粉塵爆発らへんはなかなかよかったと思うんですが。

 

とはいえ続編をまだまだ見たい!

前作と比べれば、なんだかまともなアクションになってしまい、ちょっと物足りない感のあった「2」ですが、しかしマッコールという男の魅力が消えてしまったわけではありません。

今作が初の続編主演というデンゼルなので、「3」が期待できるのかは微妙なところですが、個人的にはテレビシリーズとして復活してくれたらいいなとも思います。

久ひざに王道アクションではまったキャラクターなので、もっと活躍が、そして彼の日常が見ていたいですな!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きっとあなたも机を整理したくなる。「イコライザー」ネタバレあり感想

キャッチコピーは「19秒で悪を裁く」。
続編「イコライザー2」が絶賛公開中の、アントワン・フークア監督、デンゼル・ワシントン主演のアクション映画「イコライザー」を、ようやっと見ました。
ちょうどhuluで配信されていたので。
 
まさにデンゼルのための、デンゼルによるデンゼル映画。
穏やかなデンゼル、物騒なデンゼル、お茶目なデンゼル。
これほどまでに画面を占拠しながら、劇中ではしっかりマッコールとして認識させるあたり、やはりこの人の役作りは凄いんだなと。
 
以下の記事では、ネタバレも交えつつ、面白かったポイントを述べていきます。
ネタバレが致命的になるほどの映画ではありませんので、公開中の「イコライザー2」の予告を見て「1も見てないけどこれから見ようか迷ってる」という方にも参考になればと思います。
 

元CIAといえばテキパキアクション

「ジェイソン・ボーン」シリーズ鑑賞後、観客たちが早足になる現象が確認されているが(自分調べ)、「イコライザー」を見た観客はどうなるか。
・机を整理しだす
・会話相手を異常に見つめだす
・腕時計がストップウォッチ付きになる
などの変化が考えられます。
私は鑑賞翌日は動きがテキパキしました
 
マッコールの、朝起きてから仕事へ行って、夕食、洗い物、眠れず読書、といった1日の流れが描かれる本作ですが、とにかくデンゼルの所作一つ一つの感染力がやばいです。
アクションもそうなんですが、日常の動作からすでに精密機械のように正確で、あらかじめ段取りを済ませた手際のよさなんですね。
とにかく動作が気持ちいい。
自分を律するあまり、周囲の人にも格言のような説教じみた台詞も吐くんですが、そういうマッコールに言われるとなんか納得してしまう。
劇中、マッコールの部屋へ突入した敵が「修道僧の部屋みたいだ」と漏らしますが、まさに彼は俗世にいながら生活全てを「修行」にしているがごとき生活ぶりです。
「ちゃんとした生活フェチ」の僕には辛抱たまらん映画なんですな(何
 
そしてアクション。
マッコールは元CIAの凄腕エージェントであり、今は隠遁して暮らしていますが、いざ周囲の親しい人間に悪党が手を出せば、警告を与えた上でぶち殺します。
「19秒で悪を裁く」というコピーそのまま、凄まじい体さばきであっという間に数人の悪党を制圧してしまいます。
特徴的なのは、行動に移る前に相手をじっくり観察し、その場で段取りを組んでしまう描写です。
段取りを組んだ結果「16秒か」と呟くと、振り付けの決まった踊りを踊るが如く、ほとんどアドリブを感じさせない、予定調和であるかのような動きで相手を無力化、殺してしまうのです。
この辺のアクション演出は、やはり同じく元CIAエージェントを描く「ジェイソン・ボーン」シリーズを思わせる性質のものですね。
頭で組み立てた動きをそのまま実現する、非常に計画的でアドリブを嫌う戦い方。
準備段階で勝負は決まっているという、とてもプロらしい演出です。
あまりにうまく行きすぎてリアルさはあまりありませんが、とにかくテキパキと効率よく悪党が死ぬので気持ちいいです。
 

ホームセンターでホームアローン

クライマックスではマッコールの職場であるホームセンターを舞台に、宿敵テディと死闘を繰り広げますが、この戦闘シーンがまたユニークです。
マッコールは基本的に武器を持ちません。
その辺を見回して、手に入るあり合わせの道具で戦います。
戦い方はほぼ全てがトラップや奇襲で、ゲリラのような戦い方をします。
こんな男相手に、ホームセンターを戦場に選んだらどうなるか。
殺しのアイデアの宝石箱やぁ……!
よくテレビでホームセンター行ってアイデア商品や使い方を紹介する番組ありますよね。
アレの殺人バージョンです。
有刺鉄線で首を吊る、電子レンジで酸素ボンベをチンする、被弾するとバーナーでドアノブを熱して止血。
かの「ホームアローン」を物騒さ増し増しで再現したかのようなトラップマスターっぷり。
ラスト、ネイルガン片手にスローモーションで姿を現わすシーンは、まさに怒れるDIYの鬼神。
鬼畜なロシアンマフィア、テディも膝まずかざるを得ないのです。
この一連のホームセンターシーンも、やはり「殺しの効率」が異様に高く、マッコールの手際のよさが光ります。
マッコールの道具の使い方はどれも即興的なアイデアに満ちているのですが、さすがに熱したハチミツを傷口に塗りこむ治療法は初めて見ましたね。
あれ治療としては常識なんでしょうか?
 

読んでいる本が示すマッコールの心情

マッコールは、亡き奥さんがやっていた「読むべき100冊」リスト読破を目指すという趣味を真似て、古典文学を読むことを趣味にしています。
このマッコールが読んでいる本が、場面場面におけるマッコールの立場や心境をよく表していて面白いです。
序盤、まだトラブルに首を突っ込む前にダイナーで読んでいるのは「老人と海」。
何かの理由でCIAを辞め、平穏な日常を送ってはいるけれど、戦うべき何かも、これからなりたい自分像もない。
アリーナには「なりたいものになれる」と励ましながら、しかしこの時のマッコールはそれが自分に当てはまるとは思っていないのではないでしょうか。
アリーナに「途方に暮れた目をしている」と言われたのは的を射ていたのでしょう。
「老人と海」は、無意識のうちに戦うべき相手を探し求めているマッコールの心情をよく表しています。
次に読んでいるのは「ドン・キホーテ」。
言わずと知れた、騎士道なき時代に騎士道を貫こうとした男の滑稽な物語です。
この後アリーナや同僚のために巨悪に立ち向かっていくマッコールの姿を暗示しているようですね。
あまりに滅茶苦茶な強さを持ったマッコールが、まるで古き騎士道にのっとるように弱者を救うこの映画は、やはりどこかに滑稽さを隠しています。
最後のシーンで読んでいるのがラルフ・エリソン著「見えない人」。
これ、最初は「透明人間」かと思ってたんですが、「invisible man」はラルフ・エリソンの「見えない人」のほうだそうで。
(ウェルズ「透明人間」は「The Invisible man」と、「The」がつくそうです)
僕は未読ですが、あらすじを見る限り、黒人青年が世間から無視されるのにうんざりし、地下に潜って世間を観察するというお話のようです。
困っている人間を陰ながら助けるという使命を見つけたマッコールの境遇と重なる物語ですね。
 

ハチャメチャな状況と、丁寧なキャラクター描写

このように、「イコライザー」は間違いなくハチャメチャなアクション娯楽映画なのですが、デンゼル・ワシントンの抑制がきいた内省的な演技や、読んでいる本などの細かい演出が効いていて、起こっている事態のリアリティよりもキャラクター描写に振り切った上でそれらを丁寧に演出するという方向性の映画になっていると思いました。
アリーナを演じるクロエ・モレッツも、世間に擦れてそうで擦れ切れない少女っぽさがいい味だしていて、「たのむ、助けてやってくれ」とつい思ってしまうんですね(笑)
おずおずとトレイを持ってマッコールに近づいていくシーンなどはとてもよかった。
少し太ったとの声もありましたが、この役柄に関してはそれが逆に「なににもなれない」と悩むティーンズ感が出ていてよかったのでは。
元々が80年代のテレビシリーズを元にした作品とのことで、シリーズの「エピソード0」といった位置づけになるんでしょうか。
とにかく様々な「気持ちいい」が合わさったアクション映画の佳作です。
僕は相当好きになりました!
現在続編「イコライザー2」が公開中なので、早く見に行きたいと思います。
 
 
 
 
 

しばらく釘は見たくない。「クワイエット・プレイス」ネタバレなしレビュー

「音を立てたら、即死。」
実にシンプルでわかりやすく、それでいてかなりの理不尽っぷりを感じるコピーです。
映画「クワイエット・プレイス」は、音に反応する怪物によって滅亡の危機に瀕した世界の片隅でひっそり生存する家族が、いかに沈黙を保ちながら生活していくかを描いたホラームービーです。

www.youtube.com

監督ジョン・クラシンスキーは父親役として出演もしており、役者としてはトム・クランシー原作のドラマ「ジャック・ライアン」で主演を務めることが決まっており、今後の活躍が要チェックなお人ですね。
今作で夫婦役として共演のエミリー・ブラント(「ボーダーライン」)は実生活でも夫婦だそうです。
聾唖の娘役に実際に同様の障がいを持つ俳優ミリセント・シモンズ。
弟役にノア・ジューブ。
とにかく出演陣の演技が素晴らしく、音を出してはいけないという特殊で理不尽な生活環境への適応、常に死と隣り合わせであるというストレスなどをリアリティ満点に演じています。
脚本を監督・出演でもあるジョン・クラシンスキーが自ら書き、また原案としてスコット・ペック、ブライアン・ウッズがクレジットされています。
製作には「ミスター派手映画」マイケル・ベイが名を連ねますが、映画にはマイケル・ベイ色は一切ありません。
彼の設立によるホラー製作会社「プラチナム・デューン」が製作しています。
そして本作ではかなり本質的に重要な役割を担う音楽を「スクリーム」「バイオハザード」などを手がけたマルコ・ベルトラミが担当。
このあたりの配役が実に露骨にホラーしてますね。
 
この記事ではネタバレを避けて感想や観るうえでのポイントを述べていきますので、観ようと思ってるけどどんな感じかな、と思ってる方はぜひお読みください。

あらすじ

音に反応し人間を襲う“何か”によって荒廃した世界で、生き残った1組の家族がいた。
その“何か”は、呼吸の音さえ逃さない。誰かが一瞬でも音を立てると、即死する。
手話を使い、裸足で歩き、道には砂を敷き詰め、静寂と共に暮らすエヴリン&リーの夫婦と子供たちだが、
なんとエヴリンは出産を目前に控えているのであった。
果たして彼らは、無事最後まで沈黙を貫けるのか――?

「音」をめぐる恐怖演出

ルールはシンプル、「音を立てたら死ぬ」。
正確には、ささやき声やすり足程度の音なら平気ですが、普通の発声や物を落とす音などはほぼアウトです。
「声や音を立ててはいけない」というシチュエーションそのものは恐怖演出の常套手段ですが、それが一時的でなく、生活の常態となってしまったとしたら。
それが「クワイエット・プレイス」の描きたかった世界です。
この作品の真の主役は「音」そのものです。
音を立てたら死ぬということは、何をしたら音が出るかということを全面的に見直す作業でもあります。
そうして実際に見つめなおされた結果、この映画にはかつてないほどの「音」に関するアイデアが盛り込まれています。
床が軋む音はもちろん、洗濯の水音、草をかき分けるガサガサという音のひとつひとつが怪物を呼びかねず、常にアウトとセーフの閾値を手探りする状態です。
手が滑ってランタンを転がしただけで一家が全滅しかねない。
そんな世界において、しかも長女は生まれつき聴覚に障がいを抱えているのです。
音を立ててもわからない人間が、音を立てると死ぬ世界で生きる。
ザ・無理ゲー。。
また、母親は出産もします。
とにかく危険です。
いきむ声、赤ん坊の産声、どれひとつとっても到底見逃されない音です。
この映画のまず第一のツッコミどころといってもいいのが、この妊娠・出産ですね。
「やめておけ」という空気で全劇場がひとつになります。
しかし恐怖演出という点について、この出産というアイデアは実に秀逸でした。
「酸素ボンベ付き防音ベビーベット」とかいう無茶なシロモノが出てきた時点で「なるほど」と思うわけもなく嫌な予感全開。
流れからだいたい想像できるとは思うのですが、しかし恐らく想像を超えてえらいことになっていきます。
僕はこの「出産」シーンの間、いつのまにか肘掛を握りしめ、顔は硬直し、呼吸も忘れていました。
ほとんどギャグのような、ふんだり(!)蹴ったりどころではない、極悪ピタゴラスイッチのようなひどい災難に見舞われたうえ、声一つあげてはならないという、「もう泣かせてあげて」と見ている側が懇願したくなるような、映画史屈指の悲惨なシーンとなっていますので、ぜひ劇場でご覧ください(笑)
この映画はとにかくシンプルに、「音を立てないようにしている人間に音を立てさせるには」というアイデアが悪魔的にうまいのです。
 

世界の終わりに夢見る家族像

世界の状況について、映画はほとんど説明しません。
父親が壁に貼っている新聞記事のみがかろうじて断片的に状況を語ります。
世界中に音に反応する怪物が現れ、人類は滅亡寸前のようです。
一家以外に生存者がいるのかもわかりません。
ライフラインは全滅。
何の希望もないまま、一家はその日その日を生き延びていきます。
しかし、そんな特殊な状況においても家族は家族であり、家族だからこそのすれ違いも抱えています。
この映画は、ある意味で理想の父親・母親を、助け合う理想の家族像を描いており、さらにうがった見方をすれば、世界が終わりに差し掛かって初めて、父親が理想の父親になれたというお話でもあります。
父は常に家を守り、息子に生き残る術を教え、娘の問題につきっきりで取り組みます。
会社の仕事に忙殺される日常ではもはや夢見ることも叶わない父親像が、世界が壊れたことで初めて可能になる。
アポカリプス後の廃墟に満ちた世界に、絶望感だけでなく、そこでの生活にちょっとワクワクしてしまうのは僕だけではないはずです。
ジョン・クラシンスキーが、他ならぬ妻エミリー・ブラントとの共演においてこうした父親像を描いているのは、偶然ではないでしょう。
 

ホラー映画史に残るのは間違いなし!

久しぶりに劇場で見たホラー映画となりましたが、いやあ、しんどかったです。
90分と短い上映時間に、これでもかと詰め込まれたスリル演出。
映画館という特殊な空間を最大限に活用した「音」に関するアイデアの数々は、やはり劇場でしか味わえない種類のものかと思います。
映画館という場所は、静かにしていなくてはいけない場所です。
つまり、自動的に我々観客と劇中人物の心理は同期してしまい、いつのまにか作品世界に入り込んでしまうんですね。
設備うんぬんの問題でなく、「映画館で映画を観る」という行為そのものを作品に取り入れるという着眼点にとにかく脱帽です。
4DXでも3DでもVRでもない、新たな「体感」型ムービー。
ぜひ、この作品は静まり返った劇場でご覧ください!

 

 

ベトナム戦争、新聞、女性。「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」レビュー

1971年、ベトナム戦争への批判が高まるアメリカで全国紙ニューヨークタイムズがスクープした機密文書「マクナマラ文書(ペンタゴンペーパーズ)」。
文書にはベトナム戦争の戦況の詳細な分析が書かれていて、「ベトナム戦争は有利に進んでいる」と喧伝していた政府の欺瞞が明らかになりました。
映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」(原題「The Post」)は、この「ペンタゴン・ペーパーズ」報道を巡る政権と新聞各社の対立を背景に、当時まだ地方紙に過ぎなかったワシントン・ポスト紙が機密文書の記事掲載を決断し、政権の圧力と対決していくまでを詳細に描いていきます。
 
あらすじ
1971年、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内には反戦の気運が高まっていた。国防総省はベトナム戦争について客観的に調査・分析する文書を作成していたが、戦争の長期化により、それは7000枚に及ぶ膨大な量に膨れあがっていた。
ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。
ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。
しかし、ニクソン大統領があらゆる手段で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…報道の自由、信念を懸けた“決断”の時は近づいていた。

                                                (公式サイトhttp://pentagonpapers-movie.jp/より)

 
監督はご存知スティーブン・スピルバーグ。「レディ・プレイヤー1」と今作が全く同時期の作品であるという事実が、彼の化け物じみた引き出しの多さを物語ります。
脚本はリズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー。ジョシュ・シンガーは「ザ・ホワイトハウス」など主にテレビシリーズで活躍する脚本家。
音楽は「スターウォーズ」なども手掛け、スピルバーグとのタッグもお馴染みの生けるレジェンド、ジョン・ウィリアムズ。
撮影ヤヌス・カミンスキー(「プレイベート・ライアン」など)
 
本作は大まかにいって3つのテーマを語っています。
1、権力とメディアの関係について
2、1970年代のアメリカの新聞社の実態と歴史
3、女性の社会進出の萌芽
 
以下、順に見ていきたいと思います。なお、この映画は歴史的な事実をもとに作られているので、ネタバレが鑑賞の際に大きなキズとなるとは思いませんが、文章中に核心に触れる部分もあるので、未見の方は予めご了承のうえお読みください。
 

1、権力とメディアの関係について

この映画は、ベトナム戦争についての政府の欺瞞を暴くことになった機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」が新聞社に漏洩し、ニューヨークタイムズが大きくスクープした事から物語が動き出します。
ライバル紙に遅れをとったワシントン・ポストの編集主幹ベンは、こちらも「ペンタゴン・ペーパーズ」を手に入れようと動き、ひょんなことから文書を手に入れてしまいますが、文書作成者マクナマラと友人関係にある発行人キャサリンは掲載に反対します。
結局手に入れた文書もまたニューヨークタイムズに先に掲載されたことでお流れとなりますが、今度は情報漏洩者であるダニエルと昔同僚であったバグディキアンが、文書全部を入手してベンの自宅に持ち込みます。
そこへ、時のニクソン政権よりニューヨークタイムズへ、憲法発足以来初となる記事の差し止め命令が出されます。
この状態でポスト紙が文書に関する記事を掲載すれば、様々な罪に問われるばかりか、上場してついたばかりの投資家達も離れていき、会社の存続の危機となります。
経営幹部はほぼ全員が反対、友人マクナマラも危険だとして止める中、キャサリンは「報道の自由」を貫くために掲載を決断します。
当然ニクソン政権はポスト紙へも差し止め命令を発した上で提訴。
ところがここで思わぬ事態が起きます。
アメリカ中の新聞各社が、ポストに続けとばかりに文書に関する記事を掲載。
事態はニクソン政権vs全アメリカ新聞社という様相を呈していきます。
そして迎える最高裁判決で、新聞側は勝訴。
「報道が仕えるべきは国民。統治者ではない」とする判事の声明が出されます。
この判決はこの後のアメリカにおけるメディアと権力者の関係を決定づける重要な指針となっていきます。
トランプ大統領が自身に不都合な報道を流すメディアを攻撃する現在のアメリカでこの作品を発表する意味はもはや言葉にするまでもないですが、アメリカのみならず、ナショナリストが台頭しつつある世界情勢に対するメディアへの奮起を促すメッセージともとれます。
 

2、1970年代アメリカの新聞社の実態と歴史

この映画は「ペンタゴン・ペーパーズ」をめぐる報道についての映画ですが、同時に原題「the post」が表すように、地方紙ワシントンポストがこの報道を機に全国紙へのし上がっていく「シンデレラストーリー」でもあります。
映画のほぼ全編は新聞の編集部や編集風景で満たされ、パソコンや携帯電話がなかった時代の、アナログで手際いい作業風景が映し出されていきます。
タイプライター、大量のタバコ、黒電話、気送管。
編集者や記者の仕事ぶりは眺めているだけで気持ちよく、仕事へ耽溺する人々を眺める快楽が味わえます。
スピルバーグは、アナログな仕事の段取りをテンポよく撮る天才であり、短くまとめられた脚本とあいまって一種音楽的な楽しさがあります。
新聞映画というと邦画では「クライマーズ・ハイ」を思い出しますが、あそこまで社内対立が露骨に描かれることはなく、所々意見を戦わせながらも全体としてはチームワークを発揮して大きな仕事を成し遂げていくという筋立てなので、鑑賞後はスッキリしています。
映画の最後に「ウォーターゲート事件」を思わせる描写が出てきますが、ニクソンの支持者が民主党本部へ盗聴器を仕掛けるというスキャンダルを報道し、ニクソンを退陣へ追い込んだのが、全国紙となったワシントンポストでした。
 

3、女性の社会進出の萌芽

主役の1人であるポスト紙発行人キャサリンは女性ですが、1970年当時、女性の社主というのは異例でした。
まして彼女はビジネスウーマンとして歩んできたわけではなく、夫の自殺によって45歳で突然その座につくまでは家庭を守る「普通の女性」として暮らし、働きに出たこともなかったといいます。
この映画は、そんな素人じみたキャサリンが大きな決断を下せるようになるまでの成長物語でもあり、また現代において女性が次々と社会進出を果たすようになる、その前段階の芽生えの時期を映し出してもいます。
映画が始まってからのキャサリンはどこか自信なさげで、見慣れない資料と格闘し、男性ばかりの会議で居心地悪そうにしています。
決して声を荒げることもなく、相手を説き伏せるということもありません。
しかし、「ペンタゴン・ペーパーズ」を巡る騒動の中で徐々に社主としての自覚を、さらには報道が社会に果たすべき義務をただ1人見失うことなく、ついに周囲の反対を押し切って記事掲載を決断します。
この落差を、決して大袈裟にすることなく、全く自然にメリル・ストリープは演じ切ります。
戦う女性を描くときにやりがちな、過剰なプライド、叫ぶ演技、壮絶な口論は、メリル・ストリープ演じるキャサリンには縁遠く、あくまで夫を支えてきた奥ゆかしい女性の延長に今の彼女があることがリアルに演じられています。
ところで、この時代の女性の立場をよく表すシーンが、大勢で会食しているところ、男性が政治の話題を持ち出すと女性はこぞって別室へ移動していくという場面です。
女性社主としてのキャサリンの異例さをよく表現しています。
ラスト近く、最高裁の審議を終えて建物を出たタイムズの人々を報道陣が取り囲むなか、キャサリンを静かに迎えたのは多くの女性でした。
ベトナム戦争では主に夫や息子を送り出し、帰りを、あるいは戦死報告を待つだけの立場であった女性達は、ベトナム戦争の欺瞞を暴き、毅然として権力と戦うキャサリンを、ただ無言で優しく労います。
戦争は、良くも悪くも社会構造にも大きな影響を及ぼします。
ベトナム戦争もまた、社会の参加者としての女性の役割について再考を促し、キャサリンの姿はその象徴となったことを、このシーンは表しているようです。
ところで、ポスト紙に続いて全国各紙が文書の記事を掲載していることをベンがキャサリンに報告するシーンで、ベンは「皆あなたに続いて掲載した」と言います。
「我々に」ではなく、「あなたに」と言ったところに、傲岸な編集長が社主の決断へ贈る最大級の賛辞が読み取れて、僕はこのシーンが大好きです。
最高裁での勝訴のあと、さらに続くであろうニクソン政権との戦いについて、そして仕事そのものについて、キャサリンは盟友ベンと朗らかに語り合います。
そして戦いは、ニクソンを退陣へ追い込むウォーターゲート事件へとつながっていくことを示唆し、映画は終わります。
 
スピルバーグの「社会派」モード最新作ということで、鉄板であることはわかっていましたが、やはり面白かったです。
タイムリーで露骨すぎるほどのメッセージ性に注目されがちですが、やはりスピルバーグの真骨頂は画面作りの面白さ。
アナログ時代の新聞社をほとんどフェチの域に達したこだわりで完全復活させ、当時働いていた編集者をして「私の職場だ」と涙ぐませたのは流石です。
よく動き、よく働く人物たちは眺めているだけで気持ちよく、また物語もすっきりと頭に入ってくる構成で、ベトナム戦争をめぐる当時のアメリカの空気がすんなりと飲み込める映画になっています。
最近アメコミ映画や巨大サメ、プレデターと、面白いけどちょっと癒し系ばかりだった気がしており、どっしりした映画映画したのを見たい気分だった自分にはぴったりはまりました。