怪盗シネマ

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「怪盗グルー」「ミニオンズ」ミニオン達のモチーフとして見え隠れするユダヤ教の諸要素

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「『怪盗グルー』シリーズの人気キャラクター「ミニオン」のモデルは、実はナチスドイツに収監され人体実験の犠牲となったユダヤ人の子供たちである。」

2015年くらいに、こんな噂がネット上でまことしやかに囁かれた。

根拠として、ミニオンそっくりの帽子を被せられた子供たちの古い写真、ミニオンの話す言葉が意味不明なのはユダヤ人の子供たちがヘブライ語を話す様子と同じ、などが挙げられた。

https://matome.naver.jp/odai/2144150341821614001

この噂について、写真で子供たちが被っているのはナチスと何の関係もない潜水スーツであるということも判明し、結局のところデマであることがわかっている。

噂はすべてデマだったのか?

しかしながら、このデマが何の根も葉もない、真実をかすりもしない与太話だったのかというと、実は根本のところでいいところをついている噂だったのではないかと筆者は思っている。

「ミニオンがユダヤ人と関係がある」という部分だ。

 

「ミニオン」という言葉を辞書で調べれば、「お気に入り、寵臣、子分」とある。

日本のゲームでも、使い魔的な存在に「ミニオン」と名付けられることがあるので、言葉自体は聞いたことがある人も多いだろう。

ところでこの「ミニオン」という言葉、実はユダヤ教と深い関わりがある。

ユダヤ教の宗教的儀式に従事する係のことを「ミニオン」と呼ぶのだ。

「ミニオン」という言葉がユダヤ教由来の言葉なのかまではわからなかったが、「怪盗グルー」シリーズのミニオン達と「ユダヤ教」を重ね合わせてみると、あらためて気づくことが多い。

「最強のボスを求めて世界を彷徨う」というミニオン達の性質は、歴史を通して安住の地を探し求めるユダヤの人々とどこか重ならないだろうか。

ミニオンと72柱の悪魔

ミニオンにはユダヤの人々そのものもモチーフとされている可能性があるが、さらに見ていくともうひとつ、ユダヤ教と関わるモチーフが見えてくる。

映画「ミニオンズ」冒頭では、ミニオン達が生命誕生と同時代から存在し、いかにボスを求めてさまよってきたかが描かれるのだが、ここで筆者が気になった描写として、ミニオンが人類に「技術」を教えているような描写がある。

黎明期の人類にハエタタキのような道具を与えたり、ピラミッドの設計を担当したりといった描写である。

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(C)2014 Universal Pictures.

ちなみに、この一連の描写でミニオンがボスとあおいだ存在たちは、ミニオンの悪意のないいたずらやミスによってことごとく滅んでしまう。

ところで、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」には、かの有名なソロモン王の逸話が記述されている。

ソロモンに仕えたという「72柱の悪魔」もその中の一つだ。

そしてその悪魔たちの中には「人間に知恵を与える」というものもいる。

仕える主人に技術や知恵を与え、そして亡ぼしてしまうミニオンの性質は、こういった伝説上の悪魔に似ているようにも思える。

ミニオンとバベルの塔

さらにもう一つ。

ミニオンが話す、通称「バナナ語」。

日本語、フィンランド語、韓国語、スペイン語など多数の言語がごちゃまぜになって口にされるこの言語だが、「旧約聖書」と合わせて考えることで見えてくるものがないだろうか。

そう、「バベルの塔」の逸話である。

「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。— 「創世記」11章1-9節

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%99%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A1%94

人類はもともとはたった一つの言語を話していたが、神によって互いが理解できないよう今のように言語をバラバラにされた、という伝説である。

この伝説を裏付けるかのように、様々な言語は太古の一つの言語に起源を求めることができる、という学説もあるという。

「怪盗グルー」の世界において、この「たった一つの言語」こそ「バナナ語」だったのではないだろうか!

ここで重要な点は、「ミニオンズ」冒頭でミニオン達は人類発祥以前から言葉を使っている点だ。

ボスを求めてあらゆる土地を、あらゆる時代を生きてきたミニオン達が、その土地土地の人々になんとなく言語を伝えた結果、人類が言葉を得、長い時間を経ても「バナナ語」の名残が各国語に残っているとしたら。

「バナナ語」は各国様々の言語のミックスに聞こえるが、実は全く逆で、各国の言葉がバナナ語から派生したものだったのだ。

太古、バベルの塔を建てて神に近づかんとした、傲岸たる「最強のボス」の足元にミニオンたちがわいわい群れていたとしても、驚くには値しないだろう。

 

というように、ミニオンという可愛くも不可思議でシュールな不老不死生物を見ていると、しかも公式で人類史と絡めて語られてしまうと、しょうもない想像の翼がばっさばっさと勝手に羽ばたきだして止まらなくなってしまったので、ここに書き留めておく次第。

しかし可愛いなこいつら。

 

 

 

 

 

 

 

「アベンジャーズ/エンドゲーム」は悲劇だったのか?

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出遅れましたが観てきました、「アベンジャーズ/エンドゲーム」。

観た人たちみんなが口にするように、この作品には史上最大のクロスオーバープロジェクトとなったシリーズ全体を振り返り、懐古と感謝を捧げるような物語となっている。

あくまで架空のキャラクターであるヒーロー達だが、現実時間でも10年を走り続けた彼らに感謝し、贈り物を用意し、製作者と観客が一緒になって彼らを寿ぐ。「フィクションを尊ぶ」とはこういうことなんだと、観ながら涙ぐんでしまった。

これにて初期メンバーによる10年間の「アベンジャーズ」には一区切りがつけられたと考えていいだろう。

しかしながら、本作の物語自体は、「ヒーロー総出演お祭り映画」と一言で片づけることが憚られるような深刻なテーマ性を感じた。

以下でその深刻さが何であるのか、書きながら自分自身の考えをまとめてみたいが、多分にネタバレを含む内容にならざるを得ないので、未見の方はご注意を。

 

・お祭り騒ぎの裏に隠された悲劇性

やはりこの物語は「悲劇」だった、と思う。

前情報などで、前作で失われた全宇宙の半分の生命を取り戻す手段としてタイムトラベルを持ち出してくると予想できた時、ラストで取り戻す前提での死人大量生産だったんだな、とごく自然に飲み込んだわけだが、その予想は大方間違っていなかったにもかかわらず、本作のラストは大団円とは程遠い終幕となった。

もちろん、ロバート・ダウニー・Jrはじめ、主要キャストのシリーズからの卒業という制作事情的側面があることは百も承知で、しかしやはりアイアンマンの「戦死」は、そしてブラックウィドウの「自殺」は、「尊い犠牲」の一言で片づけられる類の死であったろうか。

本作の物語は、「タイムトラベル」「死んだ命を取り戻す」という、フィクションにおいて非常にデリケートな扱いを要する要素を二重にとりこんだものとなっている。

多くの登場人物たちが前作の指パッチンで身近な人間を失うことになり、取り戻せるのならばなんでもする、という覚悟でいる。ただ一人、トニー・スタークを除いては。トニーは幸いにも妻を失わずに済み、その後最愛の娘までももうけて平和な暮らしを営んでおり、危険を犯してまでもタイムトラベルを強行する必要性の薄い人間のひとりだった。しかしトニーは、方法を思いついてしまったがために、そして自分がアイアンマンであるがゆえにこそ、危険な賭けに等しい「タイム泥棒」計画に身を投じ、結果としては再び繰り返されそうになったサノスの指パッチンを防ぎ、身を亡ぼすことになった。

また、6つの石のひとつ「ソウルストーン」を得るために、ブラックウィドウもまた自ら死を選ぶことになった。

災厄による多くの死を「なかったことにする」ための計画が、気づけば災厄を生き延びた人々を死に至らしめている。

「特定の命を救うために、別の命が失われる」

この事態はまさに敵であるサノスが選んだ「宇宙の半数の生命を救うため、半数の生命を切り捨てる」という方法論と、本質的には全く同様なのだ。

もちろんそこで失われる命と救われる命の「数」は天と地ほども違う。しかし、この「数」の論理こそサノスの論理。敵と全く同様の論理によって失われる生命の「数」だけを操作する結果となってしまったというのが、今作「エンドゲーム」の結末なのだ。

もちろん、サノスによって強制的に理不尽に殺されるのか、死に場所や時を選んでの戦死かという違いはあるし、ことアメリカという戦争が身近な国では死に方の違いは日本以上に大きな問題となるだろう。

しかし、物語ラストで自分の人生を全うし、「美しかった」と評したキャプテンと、他人を助けるために最愛の家族を残して死なざるを得なかったトニー・スタークの姿はあまりに対照的。

「タイムトラベル」という「禁じ手」を使ってまで、理不尽な死を「なかったこと」にしようとしても、そのために新たな犠牲が出てしまう。

結局のところ、死者の列が短くなり、死者の名簿の名前が入れ替わっただけではないのか?

それとも、「本来死ななくてもよかった」アイアンマンやブラックウィドウ、最終決戦での無名の兵士たちの死には、サノスの指パッチンによる死にはない「意味」があったのか?

というあたりが、今作「エンドゲーム」を見て感じた悲劇性であり、そして今作をただのお祭り映画というだけでなく、個々人の死生観にまで思いを至らせるすぐれた脚本であるとも感じた。

「ヒーロー総出演お祭り映画」に「タイムトラベル」が出てくれば、これはもうナンデモアリの細かいことはどうでもいいんだよ!的大活劇が期待されようものを、終わってみれば結局我々は何かを失っており、だからこそこのシリーズはまだ続いていくのだ、という決意をも、終劇後の余韻の中で感じることができたのかもしれない。

 

 

放置地雷発覚系イヤホラー「ヘレディタリー/継承」

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ミスった事案を放置して特大地雷と化し、周囲が騒ぎ出して超気まずくなること、ありますよね。

 

2018年ナンバー1に挙げる人が多いのもわかる傑作ホラーだった。

怪奇現象そのもので引っ張るのではなく、そのちょっと手前、何かが起こる予感、予兆が画面全体を覆いつくし、息がつまりそうな窮屈さを観客にも強いる。

幽霊や怪奇現象はそれが見えてしまう一歩手前、いかにも出そうな雰囲気こそ最も恐怖を煽る。そのことをとてもよくわかっている監督で、実は劇中で明らかな超常現象は数えるほどもないのだが、この作品においては現象がホンモノかヤラセかにはもはや意味がなく、その場、その状況そのものがひたすらに「イヤ」なのだ。

長兄ピーターが「やらかす」例のシーン、程度は違えど人間誰もが一度は想像するであろう「人生最悪の事故」が実際に起き、そして現実逃避に走り、母の慟哭とともに現実であることを突きつけられるまでのリアルで執拗な描写。一瞬の、しかし絶対に取返しのつかない事件をきっかけに破滅へと転がりだす家族の、虚しさと閉塞感。

この映画において、スプラッター描写や超常現象的な部分はスパイスにすぎない。どんな個人も、どんな家族も陥りうる日常の落とし穴。そこに不可解で理不尽な人間の悪意をにおわせるだけで、幽霊に頼らずとも極上の恐怖が醸成されるということを、この監督はちゃんと知っていた。

ラストには一連の出来事がとある目的に向かう陰謀であったことが示唆されるが、そこの部分を抜いたとしてもこの映画の本質的な怖さが損なわれることはないはず。むしろ悪魔うんぬんの部分は物語に因果的な整合性を求めて安心したい観客への慰めですらあるかのようである。

とにかく顔ですよ。

人間は顔でこんなにも恐怖を表現できるのだ、と言わんばかりの母親役トニ・コレットの顔芸!ただ普通にしているだけで画面そのものが歪んでいるかのように錯覚させるチャーリー役ミリー・シャピロの顔!ムロツヨシにしか見えなくともしっかりノーフューチャーな感じ出てるピーター役アレックス・ウルフのイスラム過激派ぽい顔!

とにかく閉塞感しかない箱庭的世界で家族が嫌な目にあっていくだけの映画なので、見ているこちらもひたすらへこむしかない、そんなホラーとしてひたすらに正しい傑作。

悪趣味一歩踏み込み気味なので、万人にはオススメいたしかねるし見るタイミングも選ぶけど、未だホラー映画に本気で怖がることができる、というのは嬉しくもあり。

監督アリ・アスターはこれが処女作。次作は北欧民族系ホラーが待機中とのことで、こちらも楽しみだなあ。

 

 

「アントマン」

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「アントマン」Ant-Man

2015年、アメリカ。

ペイトン・リード監督、ポール・ラッド、エヴァンジェリン・リリー、マイケル・ペーニャ、マイケル・ダグラス、コリー・ストール他。

人間はデカいものが好きだ。それはもしかしたらどこまでも小さくなりたいという願望の裏返しなのかもしれない。映画館に行くという行為そのものが、ある意味では自分を矮小化し、デカい画面に、デカい世界に圧倒されにいくという意味を含んでいるのかもしれない。ローランド・エメリッヒなんかは「話なんかどうでもいいからとにかくデカいものを画面に現出せしめたい」という単純にして最強の欲望の持ち主だし、スピルバーグも特撮系においてはそのケがある。デカいというのはそれだけでひとつの正義なのだ。そしてそれは別に「でかく見える」というだけでも全く構わない。

というわけで、小さくなった人間の視点から世界を見る、というコンセプトだけですでに画面が面白くなることは、忠犬が死ぬだけで泣ける映画と化すのと同様に自明であると、すでに「ミクロキッズ」などの偉大な先達が証明している。

鑑賞後にアリが愛おしくてうっかり踏みつぶすこともできなくなるのもミクロキッズと同様で、どうも小さくなった人間はアリと仲良くなるという不思議なコードがあるらしい。

もっとも「ミクロの決死圏」や「ミクロキッズ」と違って、こちらはミクロの世界への好奇心や冒険というよりは、あくまでアクションのギミックとして使用されている感は強い。お話としては全体的に軽妙なスパイ大作戦といった趣で、一応世界の命運をかけた作戦を描いているにしてはいちいちエピソードがミニマムなのももちろんわざとだろう。

主人公からして世界を相手どる以前にまず父親としての自分を取り戻すために戦うし、全体的に親子関係のもつれが目立っていてあまり危機の緊張感はない。

主人公スコット・ラングのキャラクターは、色々拗らせがちなアベンジャーズの中では例外的といっていいほどさっぱりしてバランスがとれた大人といってよく、頭の回転の速さもあって見ていて疲れないのがいい。

ホープ役のエヴァンジェリン・リリーは「ホビット」シリーズでエルフやっていた人ですね。とにかく顔の作りが派手な方。それにしても首から肩にかけての筋肉の付き方よ。今作の役どころではそこまでの肉体改造は求められてなさそうだけど、もしかして当初はワスプも1作目から登場予定だったとか?

自分はコメディタッチな映画をつい避けてしまうというあまり得をしないクセがあるので、アントマンを見るのもだいぶ後手にまわったが、思った以上の楽しさだったので、すぐ「アントマン&ワスプ」も見てみよう。

「インフィニティウォー」を受けての「エンドゲーム」でキーとなりそうなキャラクターだが、このどこまでもミニマムで所帯じみたおっさんが宇宙レベルの危機を救うのは愉しみだ。

 

「新感染 ファイナルエクスプレス」

(C) 2016 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & REDPETER FILM. All Rights Reserved.

ヨン・サンホ監督、コン・ユ、マ・ドンソク、キム・ウィソン他。

ゾンビ映画の「お約束」は、ちゃんと丁寧に使えば物語の完成度にしっかり貢献してくれるということを思い出させてくれるような脚本の完成度。とにかく基本に忠実に、ジャンルに淫することなく真っ向からゾンビ映画を撮っている。「シンゴジラ」に例える人がいるのもわかる。ジャンルと化した映画を、その基礎の基礎から考え直し、根源的な面白さを追及すると、「内輪受け」からは大きく脱却できるという見本になりうる映画。

いやまあ、一般受けするのが正解であるとも思わないのだが、やはり真っ当によくできてる映画は誉めるべきだと思うので。特に監督の個性が大爆発するような作劇でもなく、本当に教科書的な、いっそ凡庸とも言えるドラマなんだけど、そもそも「ゾンビ映画」というジャンルのポテンシャルがあれば人間ドラマは最低限でよく、それをよくわかって必死で抑制しているようにも見える。結果、ゾンビ映画ファンからも好評なところを見れば、この映画が本質的なところを外していないことがわかる。

 個人的に一番好きだったのは、本格的なゾンビの登場する前の場面。暴動のニュース、通行止め、遠くに見えるビル火災。日常生活の中に少しずつ兆してくる異変というのがとにかく好きで、生々しければ生々しいほどいいので、このあたりの入り方はとても好き。「ラストオブアス」の冒頭が好きな人はわかってくれるはず。ワクワクするんですよ。

あとゾンビ。あまり多くのゾンビ映画を見てきたわけではないけれど、走るゾンビは今や珍しくないというのはなんとなくわかる。しかし今作のゾンビは体制とか関節とか全く気にしない癖に猛烈に走る結果、ほとんど流体のような現象に見えるのが面白い。いくつかのシーンなんか本当に人体でできた津波にしか見えない。そういう意味でも、ホラーでもあるんだけど、ディザスタームービーの趣きがより強いのかなと思う。

過激なスプラッタ描写もほぼないので、面白い映画教えろって言われたらとりあえず名前を出せる貴重な(?)作品かと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「gifted/ギフテッド」少女の未来をめぐる答えのない争い

「gifted/ギフテッド」(「gifted」)、2017年、アメリカ。

マーク・ウェブ監督。

クリス・エヴァンス、マッケナ・グレイス、リンゼイ・ダンカン他。

数学の才能に恵まれるも自殺した母親を持ち、自身も数学の圧倒的な才能(ギフテッド)を持つ7歳の少女メアリーと、親代わりとなって少女を育てる叔父フランクの生活を描く。「アメイジング・スパイダーマン」シリーズのマーク・ウェブ監督。「キャプテン・アメリカ」のクリス・エヴァンス主演。マッケナ・グレイスのませた天才っぽさと年齢相応の無邪気さを同居させた演技が素晴らしい。あと睫毛がめっちゃ長い。片目猫のフレッドが可愛い(脚本家の猫らしい)。

メアリーにとって最も「利益」になる生活とは何かをめぐり、叔父フランクと祖母エヴリンが対立する。フランクは亡き姉の意志をくんでメアリーを才能に関係なく「普通」に暮らさせることを選び、祖母エヴリンは母親と同様にその才能を最大限に伸ばすべきと考える。

ここで投げかけられる問いは、大人は本当に子どものこと「だけ」を考えて子供の生活を考えているのだろうか、という問いだ。祖母エヴリンは「優れた才能は人類の宝であり、貴重な資源であり、親子の関係を越えて責任を持つ」という信念をもって娘ダイアンに英才教育を施した。その結果としてダイアンは恋人や普通の生活を失い、あげく自殺に至った。メアリーに母親と同じ才能があると知ったエヴリンは、やはり同じように英才教育を与えることが義務だと考える。しかしエヴリンは自身が数学研究者を目指しながら挫折して結婚生活を送った過去もあり、その夢を娘や孫に託そうとしている節もある。彼女の場合、「人類への責任」という厳格な信念と「自分自身のエゴを満たす」というおそらく無意識の目的が混じりあってしまっている。

この映画の「大人」なところだが、そんなエヴリンが息子をだまし討ちのようにしてでもメアリーを奪いとろうとし、逆にフランクによって知らされたダイアンに関する衝撃の事実に打ちのめされてもなお、エヴリンのすべてを否定することはなく、誰も憎みあわないラストを用意している。メアリーにとって本当に大事な生活とは何なのか、という正解の無い問いに、それでも少しずつ答えを探っていくというラストになっている。

決して派手さはないし、シナリオも収まるべきところに収まる予定調和的な物語ではあるが、扱うテーマは普遍的で、特に小さな子供の育児中の人々には刺さる映画なのでは。フランクの、決して甘やかしすぎはしないが、メアリーにしっかり向き合い、元哲学者らしく一つ一つの問いに逃げることなく答えていく姿勢はひとつの理想の親の姿なのでは。こういう親はかっこいい。

ところで、この映画に出てくる「ミレニアム懸賞問題」、有名な話なので知っている人は知っているだろうが、劇中で大学(?)の柱に7つの問題が飾られ、「ポアンカレ予想」だけに解答者の写真が貼られているセットは、「人類がようやく1人だけ倒せた7大ボス」感が凄くて大変萌えた。ああいうの好きです。

ちなみに7つのミレニアム懸賞問題とは、

「ヤンーミルズ方程式と質量ギャップ問題」

「リーマン予想」

「P≠NP予想」

「ナビエーストークス方程式の解の存在と滑らかさ」

「ホッジ予想」

「ポアンカレ予想」(解決済み)

「バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想」

の7つとのこと。劇中でダイアンが解こうとしていたのは「ナビエーストークス方程式の解の存在と滑らかさ」。SFか哲学書のタイトルみたいだ。「滑らかさ」なんて感覚的な言葉が数学の命題になるというのが不思議。

 

 

 

 

 

息子が誘拐された母親の敵は世間。「ゲティ家の身代金」

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「ゲティ家の身代金」(All the Money in the World)、2018年。

リドリー・スコット監督

ミシェル・ウィリアムズ、クリストファー・プラマー、マーク・ウォールバーグ他。

 億万長者ジャン・ポール・ゲティの孫息子ポール(ゲティ3世)が誘拐され、身代金1700万ドルを要求された実際の誘拐事件を題材にした作品。このときJ・P・ゲティが身代金の支払いを拒否したことでマスコミも騒ぎ立てた有名な事件。

当初はゲティ役をケビン・スペイシーが演じるはずだったが、撮影も終わり映画も完成した折も折にケビン・スペイシーが「事情」により降板、お蔵入りとなるかと思われたが、リドスコが「2週間で全部撮り直す」という無茶を敢行、完成させてしまうという、またリドスコが地獄を作ってしまった(現場的な意味で)意味でいわくつきの作品。しかしさすがというべきか、2週間で撮りなおしたとは思えないほど場面場面の画が美しく、一枚ずつ切り取った静止画ひとつひとつがまるで絵画のように映える。

息子を誘拐されたゲティ家の元嫁ゲイルは、息子を取り戻すために奮闘するが、とにかく味方といえる人間がゲティの側近である元CIAのチェイスくらいしかいない。祖父であるゲティは金を出し渋り、マスコミは事件を騒ぎ立てることに命を懸ける。この映画における警察の頼りなさは異常といえるほどで、これほどの大きな誘拐事件が題材だというのに警察所属のメインキャラクターがほぼ皆無。誘拐された本人であるポールもまた、地元の住民に助けを求めてはすげなく突き放されてばかり。まるで世界に信用できる人間がいないという祖父ゲティの世界を体験させられているかのように、世間全てが自分に牙を剥くかのような状況におかれることになる。

J・P・ゲティはありあまる資産を持ちながら、肉親の命の危機にすら金を出し渋るほどの極度の守銭奴だが、劇中で「家族ですらわしから奪おうとする。だからわしは物が好きだ」と言って芸術作品を買いあさる男。なんと孫の身代金は出し渋るくせに、まさに事件の最中に身代金に匹敵する額の絵を買ったり、馬鹿でかい豪邸の建設計画を悪びれもせず披露したりする。一応、公式サイトにおいてリドリー・スコットはゲティについて「彼の行動は偉人を偉人たらしめる要素が見える」だとか「誘拐犯と交渉しない現代の対応を先取りしたもの」とかほめたたえているようにも見えるんだが、この映画でのゲティはどう見てもただの度の過ぎた守銭奴でしかない。

実際の事件を題材にしながらもフィクションを混ぜ込んでいるので、お話としてはそれなりにスリリングな展開を見せるが、それにしても息子を誘拐されるという悲劇に対して世間というのはこうまでも冷淡で残酷な態度を見せるものなのかと途方にくれるような作品。母親ゲイルの気丈さだけがかろうじて良識を保っているような冷え冷えとした世界が描かれている。

ポールを誘拐した組織の、いかにも犯罪組織然としているわけでもなく、パートのおばちゃんが大量に並んで違法な仕事に従事している光景もまた生々しく、善悪などしっかりとした境界線があるわけではないのだと思わされる。