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【北欧ミステリ】アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム『ボックス21』ネタバレなしレビュー

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『ボックス21』アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム

 早川書房、2017年。

『熊と踊れ』で「このミス」1位も獲得している実力派アンデシュ・ルースルンドとベリエ・ヘルストレムとの共著である警察小説シリーズ「グレーンス警部」シリーズの2冊目。スウェーデン本国での初出は2004年。著者であるアンデシュ・ルールンドは元ジャーナリスト。ベリエ・ヘルストレムは元服役囚にして犯罪防止団体の設立者という異色の経歴の持ち主。ジャーナリストと元服役囚という、裏社会の「現場」の最前線に立ってきた人間だから描けるリアルすぎる犯罪事件と社会問題が小説として描かれている。

リトアニア人娼婦のリディアは斡旋業者から激しい暴行を受け、病院へと搬送された。意識を取り戻した彼女は突如思いがけない行動に出る。医師を人質に取り、地階の遺体安置所に立てこもったのだ。同院内で薬物依存患者の殺人事件を捜査していたグレーンス警部は、現場で指揮を執ることになるが……。
果たしてリディアの目的は? そして事件の深部に秘められた、あまりにも重い真相とは何か?(アマゾン商品紹介より)

 北欧スウェーデン、そして近隣国リトアニアを舞台に描かれるのは、人身売買と強制売春に端を発するとある女性の物語、そして彼女が行き着く病院での人質立てこもり事件だ。そこにグレーンス警部の過去の因縁が絡まり、事件が複雑さを増していく。

 重い。

とにかくひたすらに重く気怠い現実が全編を覆い、決して事件解決の爽快感や快刀乱麻を断つカタルシスなどは望むべくもない悲惨な事件が冷静な筆致で描かれていく。

この、小説でありながら、そこにあるのが紛れもない現実であることが伝わり、「現実である以上すっきりした解決策も結末もない、ただ現実がそこにあるだけだ」とでもいうような、小説の形をかりたルポルタージュのような物語構成がこのシリーズの特徴と言えるだろう。

このシリーズはまだ2冊目だが、主人公(のはずの)グレーンス警部のキャラクター造形がユニークだ。グレーンス警部はいわゆる名探偵役ではなく、かといって事件解決を引っ張る熱血刑事でもない。では何かと聞かれれば、あえて言うと「クソオヤジ」なのだ。もちろん刑事としては優秀であり、つまらないケアレスミスなどは犯さないし、一度狙った獲物は絶対逃さない執念も持っている。しかし彼はあまりに個人的な事情に流されやすく、また感情的になりすぎる。部下を怒鳴り、若手検事を軽蔑し、死者を冒涜する。それが周囲にはまるで自傷行為のように痛々しく映り哀れを誘う。

前作『制裁』においてもグレーンス警部は事件に関わりはしたものの、ほとんど事件解決に貢献したような場面はなかった(そもそも「解決」などありえない内容の事件でもあった)。今作でもグレーンス警部は事件そのものに関わりつつ、結局のところ大きな手柄をあげることもなく、事件を華麗に解決へ導くわけでもない。彼はただ、事件に関わっていくのみだ。

一方、グレーンス警部の相棒であるスヴェン刑事は、温和で物分かりもよく、家族を愛するというグレーンス警部とは対照的なキャラクター。この二人のバディものとも言える小説でもあるのだが、今回の事件ではそれぞれ異なった立ち位置で真相にアプローチすることになる。そこで起こる二人の関係の変化も今作の読みどころ。

圧倒的な現実に対して立ちすくむしかない、そんな無力感にうちひしがれるような重い物語だが、そこから目をそらす人間ではいたくない、知ることができてよかった、そんな風に思うこともできる稀有な小説。

キーワードは「恥」。

「罪悪感は耐えられる。恥は耐えがたい」(本文より)

人は恥を拭うために道を誤り、恥を知らないがために悪に走るのかもしれない。

なお、硬派な社会派小説の体裁には不似合いなほどの「どんでん返し」がラスト3行に仕込まれている。ラスト3行を目にし、本当の「真相」を知ったときに読者の目の前に広がる世界は、いっそ清々しいほど。オススメはしないが、ぜひ目にしてほしい(笑)

 

 

 

 

冴えカノ♭8話が神回すぎて書かずにいられない/「冴えない彼女の育て方」

 

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©2017 丸戸史明・深崎暮人・KADOKAWA ファンタジア文庫刊/冴えない♭な製作委員会

いわゆる神回である。

テレビの前で萌え悶えたのはいつぶりだろうか。

「冴えない彼女の育て方♭」第8話の話である。

現在BS11深夜0時30分より放映中の「冴えない彼女の育て方♭」は、丸戸史明原作のライトノベル「冴えない彼女の育て方」のアニメ化作品である。(ちなみに今は再放送だが筆者は初見。)

重度のラノベ・ギャルゲーオタクである主人公が、ゲーム制作を通してヒロインたちと交流していく、いわゆるハーレム系青春ラブコメである。

この「♭」は2期であり、1期が13話、この「♭」第8話で通算21話目となるので、それなりに長い時間を主人公安芸倫也と加藤恵をはじめとしたヒロインたちと付き合ってきたことになる。

筆者はそれなりにオタクであるとは思うが、あまり熱心にアニメを追いかけるタイプではなく、ただなんとなくアニメがかかっていると心が安らぐ気がするので夜にBS11をかける。

正直に書くと、この「冴えカノ」は勝手にかかっていたのでなんとなく見続けてはきたが、心底から面白いと思って見てきたという気はしない。筆者はわりと露骨な萌え描写や安易なチラリズムといった要素に冷めてしまうタイプで、この作品もこういう要素は露骨なほうだと思う。

ただ、物語の軸である「ゲーム制作にかける青春」の描かれ方はうまいし面白いな、とは思っていた。

ところが、2期、つまり「♭」になり、主要制作メンバーが出そろってそれぞれの持ち味もわかってきたところで本格的な制作エピソードに入ってきたことで、俄然面白くなってきた。

特に大きな才能もないが萌えへの愛だけが迸る残念系主人公安芸倫也ががむしゃらにゲーム制作に突っ走り、引きずりこまれるように制作に参加したヒロインたちも次第に本気になっていく過程が丁寧に描かれていて、本当にいい。

既に天才ラノベ作家として名を成している霞ヶ丘詩羽。倫也の幼馴染であり、イラストの天才にして有名同人作家である澤村・スペンサー・恵梨々

そして、特に何のとりえもなく、オタクでもなく、妙に存在感がうすいのに「メインヒロイン担当」という謎の役職につけられている加藤恵。

今回の第8話は、この「メインヒロイン」加藤恵のエピソードだ。

サークル唯一の「パンピー」であり、感情の起伏にとぼしく、サークルメンバーからのあんまりな扱いにも「あー、そうなんだ」と受け流すスルースキルの持ち主である恵。

そのスキルを買われて招かれた詩羽や英梨々と違い、オタク的素養とはほぼ無縁であり、ゲーム制作に関わる理由もモチベもほとんどないのに、「メインヒロイン枠」という謎の役職で倫也に引きずり込まれたのがそもそものはじまりだった。

いずれ劣らぬエリートオタクであるメンバーの業の深さにドン引きしながらも抜けることもなく、なんとなくその場にいるところから始まり、物語が進むとともに次第に自分にできることを模索し、周囲のサポートをはじめ、ついにはプログラミングを勉強し演出に関わるまでにいたる。

そんな恵だったが、6話では作品を冬コミに出せるかどうかというサークルの重大事に関わる判断について倫也が自分に相談せずに一人で決めてしまったことを受け入れられず、初めての冬コミの打ち上げにも出ず、2か月もサークルから離れてしまっていた。

あまり喜怒哀楽を表に出さず、どんな場面でも半ば呆れながら淡々とメンバーにつきあってきた恵が、表情に出さないまでも初めて明らかな怒りを表明した場面だ。

恵は基本的に人間関係においては波風を立てず、執着せず、個性を主張せず、何かあっても「あーはいはい」とやり過ごすという処世術で生きてきた人間だった。その処世術があまりに達者で徹底しているがゆえに、実は目鼻立ちも整って容姿に恵まれているにもかかわらず「存在感が皆無」「ステルス性能高すぎ」などと揶揄されるほど周囲に溶け込んでしまっているほどだ。(その視野の狭さゆえに周囲の目が気にならない倫也とは正反対なスタンスといえる。)

その波風立てないはずの恵が、今回だけはその波に対して引かなかった。やり過ごすことをよしとしなかった。波が立とうと風が逆巻こうと、ここだけは譲れないとはじめて怒りを表明した。

7話で、あらためて自分たちが作ったゲームをプレイした倫也は、随所に自分が思っていた以上に細やかな演出が施されていることに気づき、いつのまにか強くなっていた恵のゲーム制作への想いに、そして自分が恵を無意識に蔑ろにしてしまったことに気づき激しく後悔する。

そして8話。恵を放送室に呼び出した倫也は、あらためて自分の判断ミスについて詫び、そして「ありがとう」と口にする。

「だって加藤さ、俺よりブレッシングソフトウェア(サークル名)のこと好きじゃん!」「冬コミ諦めた俺を許せなくなるくらい、好きでいてくれたじゃん!」

この倫也の台詞に、恵は何かに気づいて驚いたようにはっと息をのんでよろめき、涙をこらえられなくなってしまう。(ついでに見ている我々も涙をこらえられなくなってしまう)

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©2017 丸戸史明・深崎暮人・KADOKAWA ファンタジア文庫刊/冴えない♭な製作委員会

これまでの20話、メインキャラクターでありながら、どこかサークルの外側にいるようで、決して大きな感情や表情の変化を見せなかった恵が、初めて心の底のほうを揺さぶられ動揺している。

なにが恵を揺さぶっているのか。

倫也への怒りをはじめ、様々な感情が渦巻いているであろうこの心情を一言で表現するのは不可能だろうが、あえてひとつ挙げれば、このとき初めて恵は自分の中でいつのまにか大きくなっていたサークルの存在に気づかされたのではないか。

目立つことなく、周囲にとけこみ、何にも執着しないという生き方をしてきたはずの、そんな自分にいつのまにかできていた「仲間」。そしてその仲間のことに関して自分が初めて本気で怒っている。怒っていることは自覚していたが、それがつまりそのままサークルの存在がいかに自分にとって大きなものなっていたかの証左であることを、倫也の一言が思い知らせてしまったのだろう。

倫也のそのものずばりの一言に、一切反論の余地もなくその通りでしかないことに、自分がブレッシングソフトウェアを大好きになっていたことに、自分自身が驚いてしまったのだ。

オタク、ゲーム、仲間、怒り、そして執着。

全く今までの自分らしくない、新たな自分の一面に突然気づき、戸惑い、しかしそれを倫也は「ありがとう」と肯定した。

思いもかけず巻き込まれた「ゲーム制作」というドタバタだが、「楽しかったんだよ」と恵は言った。「みんなと離れた2か月はつらかったんだよ」とも。

この涙のあと、堰を切ったように恵は倫也にたまった不満をぶちまける。

いまいち性格を掴み難かった恵が、実は友達や仲間をなにより大事にする真っすぐな性格であること、それを裏切られることで大きく傷つく繊細さも持っていることが、やっと見ている我々にもはっきりと開示されたのだ。

なんだろう、見ているこちらも、「よかったなあ、本当によかったなあ」と孫でも見ている気分で泣けてきてしょうがなくなるのだ。

ここからの後半15分、我々は未曽有の加藤恵劇場に放り込まれることになる。

決して口にはしないし表情にも出さないが、これまでの2か月を取り戻すように、倫也の家で泊まり込みの打ち合わせを敢行する恵。倫也を延々となじり、ダメ出しの嵐をかまし、入浴中にまで携帯で会話を途切らそうとしない様は、もう完全に「一時でも離れたくない」状態の恋人であるのだが、この場合はそれが直ぐに色恋沙汰につながらないのがまたいいのだ。

ここでの恵は、決して倫也に惚れてべったりなわけではなく、あくまでサークルを、そして仲間を取り戻そうとしているのだと思う。

 

この作品が大きく優れているのは、よくある量産型ハーレムものの皮を被りながら、その実はゲーム制作という舞台での各ヒロインの青春成長物語でもあるという点だろう。

詩羽と英梨々にとってはクリエイターとして壁に突き当たり、もがきながら大きく羽ばたく物語。

そして恵にとってこの物語は、本気で怒ってみせられるほど熱くなれる何かに初めて出会い、そんな自分と仲間に正面から向き合っていく物語。

自覚以上に自分の中で大きくなっていたサークルの存在。失いかけたそれを取り戻せた恵のテンションはいつもよりちょっとばかり高めで、どこか子供のようにはしゃいで見える。

就寝前、ベッドの中から「明日になったら今日の私を忘れてね」と恥ずかし気に言う恵に対し、倫也は「やなこった」と小さくつぶやくが、画面の前の我々は叫ぶ。

「倫也ぁぁ、そいつをよこせぇぇぇ!」

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©2017 丸戸史明・深崎暮人・KADOKAWA ファンタジア文庫刊/冴えない♭な製作委員会

 

2019年10月には完結編である劇場版「fine(フィーネ)」が公開される。

青春群像劇として稀に見るクオリティであると断言できる今作の結末を劇場で見届けるチャンス。履修にはまだ間に合うので、気になる方は今からでもチェックしてください。見始めたら、最初ちょっと辛くても、できれば「♭」まで頑張って見てね。

 

 

 

 

 

 

 

 

「怪盗グルーの月泥棒」に登場する「悪党銀行」は現実にも存在する!?

映画「怪盗グルーの月泥棒」において、グルーをはじめとして世界中の悪党に資金を融資する「悪党銀行」。グルーはなんとか悪党銀行から「月泥棒」計画のための資金を調達しようとプレゼンに励んでいる。

この「悪党銀行」、入口の扉に「FORMERLY LEHMAN BROTHERS」(「元リーマンブラザーズ」くらいの意味)という文字が掲げられているというブラックな小ネタがある。

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経営破綻したあとのリーマンブラザーズが悪党銀行と化したのか、ビルが使われているだけなのかは微妙なところ。

ところで、犯罪者に犯罪のための資金を融資する銀行なんていうものが、はたして現実にもあるのだろうか?

ということで、ちょっと検索をかけてみる。

「銀行 犯罪 融資」「銀行 テロリスト」などのワードで検索してみるが、残念ながらというか、当然というか、犯罪者のための銀行があるなんていう情報はちょっとググったくらいじゃ教えてくれない。

しかしながら、銀行と悪党や犯罪は全くの無縁で、世の中の銀行はすべて正しいことにだけお金をだしているのかといえば、答えはたぶんノーだ。

銀行や金融の歴史を見てみれば、様々な国で銀行の不正や悪行が摘発されてきたことがわかる。特に銀行と絡めて語られるのが「資金洗浄(マネーロンダリング)」だ。「悪党銀行」のように直接犯罪者に犯罪のための資金を融資するというのとは違うが、不正な手段で得たお金を、その銀行を通して不正な内部処理をすることで出所や本来の持ち主を隠し、収益の発覚を防ぐ立派な犯罪である。麻薬密売、武器取引、詐欺などの様々な犯罪の収益が手を変え品を変え、今も「洗浄」されて世界を流通しているという。

ところが、もうマネロンどころじゃない、とんでもないスケールの犯罪に関わった「銀行」が一昔前まで普通に営業していたということを、20代くらいの人は知らない人も多いのではないだろうか。(かくいう筆者は30代だが全く知らなかった)

その銀行の名は「BCCI(バンク・オブ・クレジット・アンド・コマース・インターナショナル)」日本名「国際商業信用銀行」である。詐欺まがいの買収劇、粉飾決算、あげくの果てにはテロリストの武器取引への関与、各国情報機関への非合法活動への協力、自前の特殊部隊を抱え裏切者を抹殺、などなど不正と犯罪に邁進し、ついた二つ名が「犯罪銀行」

まさに現実の「悪党銀行」と言えるのはこのBCCIであろうと思う。以下では、かいつまんでこのBCCIが手を染めたという悪事を挙げてみる。この「BCCI事件」をざっと追うだけで、1980~90年代における世界の「裏事情」がほぼ全て概観できるのではないかと思うほど、実に多様な事件の裏に暗躍しているのがわかるだろう。それは「裏の世界史」とでもいうべき薄暗い世界の、嘘と裏切りの物語でもある。

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BCCIの設立

BCCIは、パキスタンのアガ・ハサン・アベディによって設立されたイスラム銀行である。その理念は「第三世界銀行」であり、二つの大戦が終わり東西冷戦の渦中にある欧米中心社会への挑戦であるかのような、世界唯一の「無国籍」銀行であった。

ロンドン、ケイマン諸島、ルクセンブルグを中心に、文字通り世界中に支店を広げたBCCIは、顧客の要望なら「なんでも」応える柔軟な対応で世界の預金者を取り込んでいった。

富裕層のみならず、貧しい人間、中小企業経営者の顧客にも柔軟で行き届いたサービスを提供したBCCIだったが、その柔軟性は世界の犯罪者達をも引き寄せた。BCCIは顧客がたとえ麻薬の密売人やテロリストであろうと、多くの預金と手数料を落としてくれさえすれば喜んで口座を提供し、さらには資金洗浄や資金輸送にも手を貸した。

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麻薬資金の洗浄

1980年、南米パナマに支店を開設したBCCIは、当時の独裁者マヌエル・ノリエガを顧客に迎え、ノリエガの手掛けた巨額の麻薬資金洗浄に便宜をはかった。ノリエガはコロンビアの麻薬組織メデジン・カルテルと手を組み、巨額の麻薬資金を動かしてその分け前にあずかっていた。現地のBCCI支店長アワンは「資金源は問わない」と言い、ノリエガのお抱え銀行家としてノリエガの資金洗浄に大いに貢献したらしい。

この巨大資金洗浄ルートは、米関税局によるCチェイス作戦での潜入捜査によって明るみになり、この時にBCCI関係者も告発されている。

テロリストの武器取引の仲介

顧客が何者であるかを問わないBCCIは、テロリストや闇の組織の取引利用の格好の的だった。イスラエルの情報機関モサド、国際テロリストアブ・ニダル、ヒズボラなど、

表立って資金調達や取引ができない組織がこぞってBCCIを利用した。口座を用意し、取引の場を提供し、時には仲介役を引き受けた。

アブ・ニダルをはじめ、様々な紛争地域と勢力に武器を提供した武器商人ナジュメディンもBCCIの上客だった。彼はBCCIを中心にして世界中と武器取引を行ったが、法律上の障壁などに当たるとBCCIが法の隙間や口実を見つけてルートを提供するといった様子だったらしい。

自身の内部を通る汚れた資金を洗浄するためのルートが複雑になればなるほど、多くの手数料をとれるために大歓迎であったという。

CIAにも協力

これほどの非合法組織との深い関わりが早い段階でひそかに取り沙汰されていながら、BCCIが長い間摘発もされず営業を続けてこられた理由として、米国CIAや政府上層部との関係も噂されていた。

冷戦当時、中東におけるソ連のアフガン侵攻を阻止するため、CIAは若き日のビンラディンも身をおいた武装組織ムジャヒディンに密かに武器供与を行っていた。その売却資金が、南米ニカラグアの反政府組織「コントラ」に流入したとされるスキャンダルが、いわゆる「イランゲート事件」だが、その資金ルートこそBCCIであったという。

湾岸戦争においても中東諸国の武器調達に少なからぬ役割を果たしたとされ、世界各国の情報機関も密かに利用していたとされる。

BCCIの終焉

世界各国で巨額の裏資金を動かし、巨利を貪っているかに思えたBCCIだったが、その内実は目を疑うような自転車操業だった。スタッフによる不正、無茶な貸し付けによる貸倒れなどで経営状態は穴だらけになっており、その穴を隠すために粉飾決算を行い、さらに穴が大きくなるという悲惨なループにはまっていた。その穴を埋めるために流用されていたのは株主の投資資金と、罪もない多くの顧客の預金である。

1991年、とうとう重い腰をあげたイングランド銀行がBCCIの営業停止処分を発表し、アメリカが一連の不正を告発したとき、もっとも多くを失ったのはBCCIを信用し全財産を預けていた預金者たちだった。

 

このように多くの不正や犯罪に利用され、また自ら関わってきたBCCIだったが、なぜそれほど犯罪者たちに重宝されたのだろうか。

その秘密は、BCCIが世界でも唯一の「無国籍」銀行であり、世界のどの規制当局にも担当されず、例えばある国の法に引っかかったとしても、ひっかからない別の国の支店を経由して資金を送るなど、独自の世界的ネットワークを構築したことにある。

いまやお金は世界をめぐるが、そのお金に関する法律は各国がバラバラに定めている。その間隙を縫って世界を自由に動かす仕組みを作った最初の銀行こそBCCIであり、世界はここからグローバル化社会におけるお金に関する多くの教訓を得たのである。

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ということで、

「怪盗グルー」に登場する「悪党銀行」は現実に存在するか?

という問いに対する回答は、

「少なくとも一昔前には存在した!」

という答えとなる。

現代にもこのような大規模の不正ネットワークが存在するのか、それを突き止めようとすると、BCCIを追ったジャーナリストたちのように、ある日突然謎の死をとげそうなので、ここではやめておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「怪盗グルー」「ミニオンズ」ミニオン達のモチーフとして見え隠れするユダヤ教の諸要素

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「『怪盗グルー』シリーズの人気キャラクター「ミニオン」のモデルは、実はナチスドイツに収監され人体実験の犠牲となったユダヤ人の子供たちである。」

2015年くらいに、こんな噂がネット上でまことしやかに囁かれた。

根拠として、ミニオンそっくりの帽子を被せられた子供たちの古い写真、ミニオンの話す言葉が意味不明なのはユダヤ人の子供たちがヘブライ語を話す様子と同じ、などが挙げられた。

https://matome.naver.jp/odai/2144150341821614001

この噂について、写真で子供たちが被っているのはナチスと何の関係もない潜水スーツであるということも判明し、結局のところデマであることがわかっている。

噂はすべてデマだったのか?

しかしながら、このデマが何の根も葉もない、真実をかすりもしない与太話だったのかというと、実は根本のところでいいところをついている噂だったのではないかと筆者は思っている。

「ミニオンがユダヤ人と関係がある」という部分だ。

 

「ミニオン」という言葉を辞書で調べれば、「お気に入り、寵臣、子分」とある。

日本のゲームでも、使い魔的な存在に「ミニオン」と名付けられることがあるので、言葉自体は聞いたことがある人も多いだろう。

ところでこの「ミニオン」という言葉、実はユダヤ教と深い関わりがある。

ユダヤ教の宗教的儀式に従事する係のことを「ミニオン」と呼ぶのだ。

「ミニオン」という言葉がユダヤ教由来の言葉なのかまではわからなかったが、「怪盗グルー」シリーズのミニオン達と「ユダヤ教」を重ね合わせてみると、あらためて気づくことが多い。

「最強のボスを求めて世界を彷徨う」というミニオン達の性質は、歴史を通して安住の地を探し求めるユダヤの人々とどこか重ならないだろうか。

ミニオンと72柱の悪魔

ミニオンにはユダヤの人々そのものもモチーフとされている可能性があるが、さらに見ていくともうひとつ、ユダヤ教と関わるモチーフが見えてくる。

映画「ミニオンズ」冒頭では、ミニオン達が生命誕生と同時代から存在し、いかにボスを求めてさまよってきたかが描かれるのだが、ここで筆者が気になった描写として、ミニオンが人類に「技術」を教えているような描写がある。

黎明期の人類にハエタタキのような道具を与えたり、ピラミッドの設計を担当したりといった描写である。

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(C)2014 Universal Pictures.

ちなみに、この一連の描写でミニオンがボスとあおいだ存在たちは、ミニオンの悪意のないいたずらやミスによってことごとく滅んでしまう。

ところで、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」には、かの有名なソロモン王の逸話が記述されている。

ソロモンに仕えたという「72柱の悪魔」もその中の一つだ。

そしてその悪魔たちの中には「人間に知恵を与える」というものもいる。

仕える主人に技術や知恵を与え、そして亡ぼしてしまうミニオンの性質は、こういった伝説上の悪魔に似ているようにも思える。

ミニオンとバベルの塔

さらにもう一つ。

ミニオンが話す、通称「バナナ語」。

日本語、フィンランド語、韓国語、スペイン語など多数の言語がごちゃまぜになって口にされるこの言語だが、「旧約聖書」と合わせて考えることで見えてくるものがないだろうか。

そう、「バベルの塔」の逸話である。

「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。— 「創世記」11章1-9節

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%99%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A1%94

人類はもともとはたった一つの言語を話していたが、神によって互いが理解できないよう今のように言語をバラバラにされた、という伝説である。

この伝説を裏付けるかのように、様々な言語は太古の一つの言語に起源を求めることができる、という学説もあるという。

「怪盗グルー」の世界において、この「たった一つの言語」こそ「バナナ語」だったのではないだろうか!

ここで重要な点は、「ミニオンズ」冒頭でミニオン達は人類発祥以前から言葉を使っている点だ。

ボスを求めてあらゆる土地を、あらゆる時代を生きてきたミニオン達が、その土地土地の人々になんとなく言語を伝えた結果、人類が言葉を得、長い時間を経ても「バナナ語」の名残が各国語に残っているとしたら。

「バナナ語」は各国様々の言語のミックスに聞こえるが、実は全く逆で、各国の言葉がバナナ語から派生したものだったのだ。

太古、バベルの塔を建てて神に近づかんとした、傲岸たる「最強のボス」の足元にミニオンたちがわいわい群れていたとしても、驚くには値しないだろう。

 

というように、ミニオンという可愛くも不可思議でシュールな不老不死生物を見ていると、しかも公式で人類史と絡めて語られてしまうと、しょうもない想像の翼がばっさばっさと勝手に羽ばたきだして止まらなくなってしまったので、ここに書き留めておく次第。

しかし可愛いなこいつら。

 

 

 

 

 

 

 

「アベンジャーズ/エンドゲーム」は悲劇だったのか?

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出遅れましたが観てきました、「アベンジャーズ/エンドゲーム」。

観た人たちみんなが口にするように、この作品には史上最大のクロスオーバープロジェクトとなったシリーズ全体を振り返り、懐古と感謝を捧げるような物語となっている。

あくまで架空のキャラクターであるヒーロー達だが、現実時間でも10年を走り続けた彼らに感謝し、贈り物を用意し、製作者と観客が一緒になって彼らを寿ぐ。「フィクションを尊ぶ」とはこういうことなんだと、観ながら涙ぐんでしまった。

これにて初期メンバーによる10年間の「アベンジャーズ」には一区切りがつけられたと考えていいだろう。

しかしながら、本作の物語自体は、「ヒーロー総出演お祭り映画」と一言で片づけることが憚られるような深刻なテーマ性を感じた。

以下でその深刻さが何であるのか、書きながら自分自身の考えをまとめてみたいが、多分にネタバレを含む内容にならざるを得ないので、未見の方はご注意を。

 

・お祭り騒ぎの裏に隠された悲劇性

やはりこの物語は「悲劇」だった、と思う。

前情報などで、前作で失われた全宇宙の半分の生命を取り戻す手段としてタイムトラベルを持ち出してくると予想できた時、ラストで取り戻す前提での死人大量生産だったんだな、とごく自然に飲み込んだわけだが、その予想は大方間違っていなかったにもかかわらず、本作のラストは大団円とは程遠い終幕となった。

もちろん、ロバート・ダウニー・Jrはじめ、主要キャストのシリーズからの卒業という制作事情的側面があることは百も承知で、しかしやはりアイアンマンの「戦死」は、そしてブラックウィドウの「自殺」は、「尊い犠牲」の一言で片づけられる類の死であったろうか。

本作の物語は、「タイムトラベル」「死んだ命を取り戻す」という、フィクションにおいて非常にデリケートな扱いを要する要素を二重にとりこんだものとなっている。

多くの登場人物たちが前作の指パッチンで身近な人間を失うことになり、取り戻せるのならばなんでもする、という覚悟でいる。ただ一人、トニー・スタークを除いては。トニーは幸いにも妻を失わずに済み、その後最愛の娘までももうけて平和な暮らしを営んでおり、危険を犯してまでもタイムトラベルを強行する必要性の薄い人間のひとりだった。しかしトニーは、方法を思いついてしまったがために、そして自分がアイアンマンであるがゆえにこそ、危険な賭けに等しい「タイム泥棒」計画に身を投じ、結果としては再び繰り返されそうになったサノスの指パッチンを防ぎ、身を亡ぼすことになった。

また、6つの石のひとつ「ソウルストーン」を得るために、ブラックウィドウもまた自ら死を選ぶことになった。

災厄による多くの死を「なかったことにする」ための計画が、気づけば災厄を生き延びた人々を死に至らしめている。

「特定の命を救うために、別の命が失われる」

この事態はまさに敵であるサノスが選んだ「宇宙の半数の生命を救うため、半数の生命を切り捨てる」という方法論と、本質的には全く同様なのだ。

もちろんそこで失われる命と救われる命の「数」は天と地ほども違う。しかし、この「数」の論理こそサノスの論理。敵と全く同様の論理によって失われる生命の「数」だけを操作する結果となってしまったというのが、今作「エンドゲーム」の結末なのだ。

もちろん、サノスによって強制的に理不尽に殺されるのか、死に場所や時を選んでの戦死かという違いはあるし、ことアメリカという戦争が身近な国では死に方の違いは日本以上に大きな問題となるだろう。

しかし、物語ラストで自分の人生を全うし、「美しかった」と評したキャプテンと、他人を助けるために最愛の家族を残して死なざるを得なかったトニー・スタークの姿はあまりに対照的。

「タイムトラベル」という「禁じ手」を使ってまで、理不尽な死を「なかったこと」にしようとしても、そのために新たな犠牲が出てしまう。

結局のところ、死者の列が短くなり、死者の名簿の名前が入れ替わっただけではないのか?

それとも、「本来死ななくてもよかった」アイアンマンやブラックウィドウ、最終決戦での無名の兵士たちの死には、サノスの指パッチンによる死にはない「意味」があったのか?

というあたりが、今作「エンドゲーム」を見て感じた悲劇性であり、そして今作をただのお祭り映画というだけでなく、個々人の死生観にまで思いを至らせるすぐれた脚本であるとも感じた。

「ヒーロー総出演お祭り映画」に「タイムトラベル」が出てくれば、これはもうナンデモアリの細かいことはどうでもいいんだよ!的大活劇が期待されようものを、終わってみれば結局我々は何かを失っており、だからこそこのシリーズはまだ続いていくのだ、という決意をも、終劇後の余韻の中で感じることができたのかもしれない。

 

 

放置地雷発覚系イヤホラー「ヘレディタリー/継承」

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ミスった事案を放置して特大地雷と化し、周囲が騒ぎ出して超気まずくなること、ありますよね。

 

2018年ナンバー1に挙げる人が多いのもわかる傑作ホラーだった。

怪奇現象そのもので引っ張るのではなく、そのちょっと手前、何かが起こる予感、予兆が画面全体を覆いつくし、息がつまりそうな窮屈さを観客にも強いる。

幽霊や怪奇現象はそれが見えてしまう一歩手前、いかにも出そうな雰囲気こそ最も恐怖を煽る。そのことをとてもよくわかっている監督で、実は劇中で明らかな超常現象は数えるほどもないのだが、この作品においては現象がホンモノかヤラセかにはもはや意味がなく、その場、その状況そのものがひたすらに「イヤ」なのだ。

長兄ピーターが「やらかす」例のシーン、程度は違えど人間誰もが一度は想像するであろう「人生最悪の事故」が実際に起き、そして現実逃避に走り、母の慟哭とともに現実であることを突きつけられるまでのリアルで執拗な描写。一瞬の、しかし絶対に取返しのつかない事件をきっかけに破滅へと転がりだす家族の、虚しさと閉塞感。

この映画において、スプラッター描写や超常現象的な部分はスパイスにすぎない。どんな個人も、どんな家族も陥りうる日常の落とし穴。そこに不可解で理不尽な人間の悪意をにおわせるだけで、幽霊に頼らずとも極上の恐怖が醸成されるということを、この監督はちゃんと知っていた。

ラストには一連の出来事がとある目的に向かう陰謀であったことが示唆されるが、そこの部分を抜いたとしてもこの映画の本質的な怖さが損なわれることはないはず。むしろ悪魔うんぬんの部分は物語に因果的な整合性を求めて安心したい観客への慰めですらあるかのようである。

とにかく顔ですよ。

人間は顔でこんなにも恐怖を表現できるのだ、と言わんばかりの母親役トニ・コレットの顔芸!ただ普通にしているだけで画面そのものが歪んでいるかのように錯覚させるチャーリー役ミリー・シャピロの顔!ムロツヨシにしか見えなくともしっかりノーフューチャーな感じ出てるピーター役アレックス・ウルフのイスラム過激派ぽい顔!

とにかく閉塞感しかない箱庭的世界で家族が嫌な目にあっていくだけの映画なので、見ているこちらもひたすらへこむしかない、そんなホラーとしてひたすらに正しい傑作。

悪趣味一歩踏み込み気味なので、万人にはオススメいたしかねるし見るタイミングも選ぶけど、未だホラー映画に本気で怖がることができる、というのは嬉しくもあり。

監督アリ・アスターはこれが処女作。次作は北欧民族系ホラーが待機中とのことで、こちらも楽しみだなあ。

 

 

「アントマン」

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「アントマン」Ant-Man

2015年、アメリカ。

ペイトン・リード監督、ポール・ラッド、エヴァンジェリン・リリー、マイケル・ペーニャ、マイケル・ダグラス、コリー・ストール他。

人間はデカいものが好きだ。それはもしかしたらどこまでも小さくなりたいという願望の裏返しなのかもしれない。映画館に行くという行為そのものが、ある意味では自分を矮小化し、デカい画面に、デカい世界に圧倒されにいくという意味を含んでいるのかもしれない。ローランド・エメリッヒなんかは「話なんかどうでもいいからとにかくデカいものを画面に現出せしめたい」という単純にして最強の欲望の持ち主だし、スピルバーグも特撮系においてはそのケがある。デカいというのはそれだけでひとつの正義なのだ。そしてそれは別に「でかく見える」というだけでも全く構わない。

というわけで、小さくなった人間の視点から世界を見る、というコンセプトだけですでに画面が面白くなることは、忠犬が死ぬだけで泣ける映画と化すのと同様に自明であると、すでに「ミクロキッズ」などの偉大な先達が証明している。

鑑賞後にアリが愛おしくてうっかり踏みつぶすこともできなくなるのもミクロキッズと同様で、どうも小さくなった人間はアリと仲良くなるという不思議なコードがあるらしい。

もっとも「ミクロの決死圏」や「ミクロキッズ」と違って、こちらはミクロの世界への好奇心や冒険というよりは、あくまでアクションのギミックとして使用されている感は強い。お話としては全体的に軽妙なスパイ大作戦といった趣で、一応世界の命運をかけた作戦を描いているにしてはいちいちエピソードがミニマムなのももちろんわざとだろう。

主人公からして世界を相手どる以前にまず父親としての自分を取り戻すために戦うし、全体的に親子関係のもつれが目立っていてあまり危機の緊張感はない。

主人公スコット・ラングのキャラクターは、色々拗らせがちなアベンジャーズの中では例外的といっていいほどさっぱりしてバランスがとれた大人といってよく、頭の回転の速さもあって見ていて疲れないのがいい。

ホープ役のエヴァンジェリン・リリーは「ホビット」シリーズでエルフやっていた人ですね。とにかく顔の作りが派手な方。それにしても首から肩にかけての筋肉の付き方よ。今作の役どころではそこまでの肉体改造は求められてなさそうだけど、もしかして当初はワスプも1作目から登場予定だったとか?

自分はコメディタッチな映画をつい避けてしまうというあまり得をしないクセがあるので、アントマンを見るのもだいぶ後手にまわったが、思った以上の楽しさだったので、すぐ「アントマン&ワスプ」も見てみよう。

「インフィニティウォー」を受けての「エンドゲーム」でキーとなりそうなキャラクターだが、このどこまでもミニマムで所帯じみたおっさんが宇宙レベルの危機を救うのは愉しみだ。