怪盗シネマ

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戦争に閉じ込められた男たち。「フューリー」感想

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「フューリー」(「Fury」)2014年。

デビッド・エアー監督。

ブラッド・ピット、ローガン・ラーマン、シャイア・ラブーフ他

 第二次大戦末期、ドイツ軍に包囲されながら進軍する連合軍の戦車小隊。彼らの戦闘と人間模様を、凄惨で泥臭い戦闘描写の中で描いていく。

 見所は戦車を存分に活かした戦闘シーンで、実際の戦車戦を目にしているようなリアルな描写。当たる弾丸の種類によって人体の損壊の様子が千差万別となっていて、グロいながらも説得力のある映像だった。戦車の主砲を直撃された人体が、文字通り吹っ飛んで跡形もなくなるなど。

特筆すべきはやはりドイツ軍の文字通りの虎の子、ティーガー戦車との戦いだろう。相手にはこちらの弾は通じず、相手の弾は一撃でこちらを粉砕するという絶望感。このシーンの音楽がまた、ラスボス感があってたまらない。

 余談だが、少し前に「バトルフィールドⅠ」で戦車戦を体験できるシナリオをプレイした。あのゲームでは戦車同士の戦闘は相手の側面を取り合うように動くのがセオリーなのだが、この映画でもやはり装甲の薄い箇所を狙って相手の側背面に回り込むような挙動になっていて、逆に「バトルフィールドⅠ」の戦車戦のリアルさを感じてしまった。 

 戦争という閉じた世界へ

この映画では、ローガン・ラーマン演じる「まともな感覚を持った」新兵ノーマンを通じて、観客もまた通常の倫理感を持ったまま非日常の世界である戦争へと連れ去られたかのような体験をすることになる。最初は無抵抗のドイツ人捕虜を殺すことに必死で抵抗し、自身の倫理観を手放すまいとしていたノーマンだが、仲間と状況に流され、次第に殺人への抵抗感を忘れ、戦闘に前向きになっていく。

 この映画で最も退屈で、しかしたぶん映画のテーマとしてはもっとも重要なのが、中盤のドイツの女性エマとドン、ローガン、小隊のメンバーのやりとりのシーンなのだろう。制圧した街で、女性を相手に紳士的にふるまい、束の間戦場を忘れようとするドン。それを「おままごと」と吐き捨て、戦争こそが現実だと断言する小隊メンバー。

目に見えない速度で飛来する無数の銃弾によって、自身が死んだことすら認識する間もなく、あっけなく命を失いかねない戦場にあって、倫理や人間性はあまりにも役に立たず、それを守るには人間は脆弱すぎる。

日常生活において美徳とされる倫理は、戦争に放り込まれ兵士となった人間にとっては180度反転し、殺人と獣性こそ身を守るたしなみと化す。長い戦争を戦い抜いてきたドンは、偶然訪れた平和な家と美しい女性を前に、「戦争外の世界」を束の間夢見るが、仲間たちによって「そこは現実ではない」ことを悟らされてしまう。

 クライマックスに至るシーンで、なぜドンがああも頑固に任務に固執したのか、首をひねった観客も多いのではないか。僕もそのひとりではあるが、ドンがすでに戦争以外の場所で生きることが考えられなくなっていたのだとしたら辻褄は合うのではないかと思う。おりしも戦争は終わりが近づきつつあり、ドイツの部隊のひとつやふたつ、大局には影響しようがない。普通に考えれば放ってやりすごせばいいものを、わざわざドンはたった戦車1台、それもキャタピラーがれて動けない戦車のみで迎撃すると決意した。

どう考えても、この決断は自殺以外の何物でもない。理由も特に語られない。

「それが俺たちの任務だ」

「ここが俺の家だ」

実際、それ以外の理由らしい理由はないのではないか。いくつもの戦場を生き抜き、仲間を導いてきたドンは、しかしあの家で、もう自分が平和の中で生きることができないと気づいてしまったのではないかと思う。

 最後の戦闘の間際、「マシン」という「洗礼名」を与えられたノーマンもまた、ドンの自殺に付き合うことを決める。彼は結局最後まで生き残り、友軍から「英雄だ」と称えられる。その台詞の空虚な響きと、残骸となった「フューリー」号を背景に、映画は終わる。「マシン」となったノーマンが人間性を取り戻せるのかは描かれない。この映画に「戦争」の外の世界は存在しないかのように。 

 ちなみにこの映画のメインキャストのうち、ローガン・ラーマンもシャイア・ラブーフもユダヤ人である。彼らがナチス・ドイツ相手に銃弾を撃ちまくるという構図も、「フューリー」というタイトルにふさわしいような。

「フューリー」というタイトルの通り、全編を通して怒りがぶっ放され、全てを燃やし尽くし、そして燃え尽きたあとの焼野原で立ち尽くす、そんな映画である。