怪盗シネマ

cinema,book,boardgame

「アベンジャーズ/エンドゲーム」は悲劇だったのか?

ãã¨ã³ãã²ã¼ã ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

出遅れましたが観てきました、「アベンジャーズ/エンドゲーム」。

観た人たちみんなが口にするように、この作品には史上最大のクロスオーバープロジェクトとなったシリーズ全体を振り返り、懐古と感謝を捧げるような物語となっている。

あくまで架空のキャラクターであるヒーロー達だが、現実時間でも10年を走り続けた彼らに感謝し、贈り物を用意し、製作者と観客が一緒になって彼らを寿ぐ。「フィクションを尊ぶ」とはこういうことなんだと、観ながら涙ぐんでしまった。

これにて初期メンバーによる10年間の「アベンジャーズ」には一区切りがつけられたと考えていいだろう。

しかしながら、本作の物語自体は、「ヒーロー総出演お祭り映画」と一言で片づけることが憚られるような深刻なテーマ性を感じた。

以下でその深刻さが何であるのか、書きながら自分自身の考えをまとめてみたいが、多分にネタバレを含む内容にならざるを得ないので、未見の方はご注意を。

 

・お祭り騒ぎの裏に隠された悲劇性

やはりこの物語は「悲劇」だった、と思う。

前情報などで、前作で失われた全宇宙の半分の生命を取り戻す手段としてタイムトラベルを持ち出してくると予想できた時、ラストで取り戻す前提での死人大量生産だったんだな、とごく自然に飲み込んだわけだが、その予想は大方間違っていなかったにもかかわらず、本作のラストは大団円とは程遠い終幕となった。

もちろん、ロバート・ダウニー・Jrはじめ、主要キャストのシリーズからの卒業という制作事情的側面があることは百も承知で、しかしやはりアイアンマンの「戦死」は、そしてブラックウィドウの「自殺」は、「尊い犠牲」の一言で片づけられる類の死であったろうか。

本作の物語は、「タイムトラベル」「死んだ命を取り戻す」という、フィクションにおいて非常にデリケートな扱いを要する要素を二重にとりこんだものとなっている。

多くの登場人物たちが前作の指パッチンで身近な人間を失うことになり、取り戻せるのならばなんでもする、という覚悟でいる。ただ一人、トニー・スタークを除いては。トニーは幸いにも妻を失わずに済み、その後最愛の娘までももうけて平和な暮らしを営んでおり、危険を犯してまでもタイムトラベルを強行する必要性の薄い人間のひとりだった。しかしトニーは、方法を思いついてしまったがために、そして自分がアイアンマンであるがゆえにこそ、危険な賭けに等しい「タイム泥棒」計画に身を投じ、結果としては再び繰り返されそうになったサノスの指パッチンを防ぎ、身を亡ぼすことになった。

また、6つの石のひとつ「ソウルストーン」を得るために、ブラックウィドウもまた自ら死を選ぶことになった。

災厄による多くの死を「なかったことにする」ための計画が、気づけば災厄を生き延びた人々を死に至らしめている。

「特定の命を救うために、別の命が失われる」

この事態はまさに敵であるサノスが選んだ「宇宙の半数の生命を救うため、半数の生命を切り捨てる」という方法論と、本質的には全く同様なのだ。

もちろんそこで失われる命と救われる命の「数」は天と地ほども違う。しかし、この「数」の論理こそサノスの論理。敵と全く同様の論理によって失われる生命の「数」だけを操作する結果となってしまったというのが、今作「エンドゲーム」の結末なのだ。

もちろん、サノスによって強制的に理不尽に殺されるのか、死に場所や時を選んでの戦死かという違いはあるし、ことアメリカという戦争が身近な国では死に方の違いは日本以上に大きな問題となるだろう。

しかし、物語ラストで自分の人生を全うし、「美しかった」と評したキャプテンと、他人を助けるために最愛の家族を残して死なざるを得なかったトニー・スタークの姿はあまりに対照的。

「タイムトラベル」という「禁じ手」を使ってまで、理不尽な死を「なかったこと」にしようとしても、そのために新たな犠牲が出てしまう。

結局のところ、死者の列が短くなり、死者の名簿の名前が入れ替わっただけではないのか?

それとも、「本来死ななくてもよかった」アイアンマンやブラックウィドウ、最終決戦での無名の兵士たちの死には、サノスの指パッチンによる死にはない「意味」があったのか?

というあたりが、今作「エンドゲーム」を見て感じた悲劇性であり、そして今作をただのお祭り映画というだけでなく、個々人の死生観にまで思いを至らせるすぐれた脚本であるとも感じた。

「ヒーロー総出演お祭り映画」に「タイムトラベル」が出てくれば、これはもうナンデモアリの細かいことはどうでもいいんだよ!的大活劇が期待されようものを、終わってみれば結局我々は何かを失っており、だからこそこのシリーズはまだ続いていくのだ、という決意をも、終劇後の余韻の中で感じることができたのかもしれない。