怪盗シネマ

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「アントマン」

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「アントマン」Ant-Man

2015年、アメリカ。

ペイトン・リード監督、ポール・ラッド、エヴァンジェリン・リリー、マイケル・ペーニャ、マイケル・ダグラス、コリー・ストール他。

人間はデカいものが好きだ。それはもしかしたらどこまでも小さくなりたいという願望の裏返しなのかもしれない。映画館に行くという行為そのものが、ある意味では自分を矮小化し、デカい画面に、デカい世界に圧倒されにいくという意味を含んでいるのかもしれない。ローランド・エメリッヒなんかは「話なんかどうでもいいからとにかくデカいものを画面に現出せしめたい」という単純にして最強の欲望の持ち主だし、スピルバーグも特撮系においてはそのケがある。デカいというのはそれだけでひとつの正義なのだ。そしてそれは別に「でかく見える」というだけでも全く構わない。

というわけで、小さくなった人間の視点から世界を見る、というコンセプトだけですでに画面が面白くなることは、忠犬が死ぬだけで泣ける映画と化すのと同様に自明であると、すでに「ミクロキッズ」などの偉大な先達が証明している。

鑑賞後にアリが愛おしくてうっかり踏みつぶすこともできなくなるのもミクロキッズと同様で、どうも小さくなった人間はアリと仲良くなるという不思議なコードがあるらしい。

もっとも「ミクロの決死圏」や「ミクロキッズ」と違って、こちらはミクロの世界への好奇心や冒険というよりは、あくまでアクションのギミックとして使用されている感は強い。お話としては全体的に軽妙なスパイ大作戦といった趣で、一応世界の命運をかけた作戦を描いているにしてはいちいちエピソードがミニマムなのももちろんわざとだろう。

主人公からして世界を相手どる以前にまず父親としての自分を取り戻すために戦うし、全体的に親子関係のもつれが目立っていてあまり危機の緊張感はない。

主人公スコット・ラングのキャラクターは、色々拗らせがちなアベンジャーズの中では例外的といっていいほどさっぱりしてバランスがとれた大人といってよく、頭の回転の速さもあって見ていて疲れないのがいい。

ホープ役のエヴァンジェリン・リリーは「ホビット」シリーズでエルフやっていた人ですね。とにかく顔の作りが派手な方。それにしても首から肩にかけての筋肉の付き方よ。今作の役どころではそこまでの肉体改造は求められてなさそうだけど、もしかして当初はワスプも1作目から登場予定だったとか?

自分はコメディタッチな映画をつい避けてしまうというあまり得をしないクセがあるので、アントマンを見るのもだいぶ後手にまわったが、思った以上の楽しさだったので、すぐ「アントマン&ワスプ」も見てみよう。

「インフィニティウォー」を受けての「エンドゲーム」でキーとなりそうなキャラクターだが、このどこまでもミニマムで所帯じみたおっさんが宇宙レベルの危機を救うのは愉しみだ。

 

「新感染 ファイナルエクスプレス」

(C) 2016 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & REDPETER FILM. All Rights Reserved.

ヨン・サンホ監督、コン・ユ、マ・ドンソク、キム・ウィソン他。

ゾンビ映画の「お約束」は、ちゃんと丁寧に使えば物語の完成度にしっかり貢献してくれるということを思い出させてくれるような脚本の完成度。とにかく基本に忠実に、ジャンルに淫することなく真っ向からゾンビ映画を撮っている。「シンゴジラ」に例える人がいるのもわかる。ジャンルと化した映画を、その基礎の基礎から考え直し、根源的な面白さを追及すると、「内輪受け」からは大きく脱却できるという見本になりうる映画。

いやまあ、一般受けするのが正解であるとも思わないのだが、やはり真っ当によくできてる映画は誉めるべきだと思うので。特に監督の個性が大爆発するような作劇でもなく、本当に教科書的な、いっそ凡庸とも言えるドラマなんだけど、そもそも「ゾンビ映画」というジャンルのポテンシャルがあれば人間ドラマは最低限でよく、それをよくわかって必死で抑制しているようにも見える。結果、ゾンビ映画ファンからも好評なところを見れば、この映画が本質的なところを外していないことがわかる。

 個人的に一番好きだったのは、本格的なゾンビの登場する前の場面。暴動のニュース、通行止め、遠くに見えるビル火災。日常生活の中に少しずつ兆してくる異変というのがとにかく好きで、生々しければ生々しいほどいいので、このあたりの入り方はとても好き。「ラストオブアス」の冒頭が好きな人はわかってくれるはず。ワクワクするんですよ。

あとゾンビ。あまり多くのゾンビ映画を見てきたわけではないけれど、走るゾンビは今や珍しくないというのはなんとなくわかる。しかし今作のゾンビは体制とか関節とか全く気にしない癖に猛烈に走る結果、ほとんど流体のような現象に見えるのが面白い。いくつかのシーンなんか本当に人体でできた津波にしか見えない。そういう意味でも、ホラーでもあるんだけど、ディザスタームービーの趣きがより強いのかなと思う。

過激なスプラッタ描写もほぼないので、面白い映画教えろって言われたらとりあえず名前を出せる貴重な(?)作品かと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「gifted/ギフテッド」少女の未来をめぐる答えのない争い

「gifted/ギフテッド」(「gifted」)、2017年、アメリカ。

マーク・ウェブ監督。

クリス・エヴァンス、マッケナ・グレイス、リンゼイ・ダンカン他。

数学の才能に恵まれるも自殺した母親を持ち、自身も数学の圧倒的な才能(ギフテッド)を持つ7歳の少女メアリーと、親代わりとなって少女を育てる叔父フランクの生活を描く。「アメイジング・スパイダーマン」シリーズのマーク・ウェブ監督。「キャプテン・アメリカ」のクリス・エヴァンス主演。マッケナ・グレイスのませた天才っぽさと年齢相応の無邪気さを同居させた演技が素晴らしい。あと睫毛がめっちゃ長い。片目猫のフレッドが可愛い(脚本家の猫らしい)。

メアリーにとって最も「利益」になる生活とは何かをめぐり、叔父フランクと祖母エヴリンが対立する。フランクは亡き姉の意志をくんでメアリーを才能に関係なく「普通」に暮らさせることを選び、祖母エヴリンは母親と同様にその才能を最大限に伸ばすべきと考える。

ここで投げかけられる問いは、大人は本当に子どものこと「だけ」を考えて子供の生活を考えているのだろうか、という問いだ。祖母エヴリンは「優れた才能は人類の宝であり、貴重な資源であり、親子の関係を越えて責任を持つ」という信念をもって娘ダイアンに英才教育を施した。その結果としてダイアンは恋人や普通の生活を失い、あげく自殺に至った。メアリーに母親と同じ才能があると知ったエヴリンは、やはり同じように英才教育を与えることが義務だと考える。しかしエヴリンは自身が数学研究者を目指しながら挫折して結婚生活を送った過去もあり、その夢を娘や孫に託そうとしている節もある。彼女の場合、「人類への責任」という厳格な信念と「自分自身のエゴを満たす」というおそらく無意識の目的が混じりあってしまっている。

この映画の「大人」なところだが、そんなエヴリンが息子をだまし討ちのようにしてでもメアリーを奪いとろうとし、逆にフランクによって知らされたダイアンに関する衝撃の事実に打ちのめされてもなお、エヴリンのすべてを否定することはなく、誰も憎みあわないラストを用意している。メアリーにとって本当に大事な生活とは何なのか、という正解の無い問いに、それでも少しずつ答えを探っていくというラストになっている。

決して派手さはないし、シナリオも収まるべきところに収まる予定調和的な物語ではあるが、扱うテーマは普遍的で、特に小さな子供の育児中の人々には刺さる映画なのでは。フランクの、決して甘やかしすぎはしないが、メアリーにしっかり向き合い、元哲学者らしく一つ一つの問いに逃げることなく答えていく姿勢はひとつの理想の親の姿なのでは。こういう親はかっこいい。

ところで、この映画に出てくる「ミレニアム懸賞問題」、有名な話なので知っている人は知っているだろうが、劇中で大学(?)の柱に7つの問題が飾られ、「ポアンカレ予想」だけに解答者の写真が貼られているセットは、「人類がようやく1人だけ倒せた7大ボス」感が凄くて大変萌えた。ああいうの好きです。

ちなみに7つのミレニアム懸賞問題とは、

「ヤンーミルズ方程式と質量ギャップ問題」

「リーマン予想」

「P≠NP予想」

「ナビエーストークス方程式の解の存在と滑らかさ」

「ホッジ予想」

「ポアンカレ予想」(解決済み)

「バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想」

の7つとのこと。劇中でダイアンが解こうとしていたのは「ナビエーストークス方程式の解の存在と滑らかさ」。SFか哲学書のタイトルみたいだ。「滑らかさ」なんて感覚的な言葉が数学の命題になるというのが不思議。

 

 

 

 

 

息子が誘拐された母親の敵は世間。「ゲティ家の身代金」

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「ゲティ家の身代金」(All the Money in the World)、2018年。

リドリー・スコット監督

ミシェル・ウィリアムズ、クリストファー・プラマー、マーク・ウォールバーグ他。

 億万長者ジャン・ポール・ゲティの孫息子ポール(ゲティ3世)が誘拐され、身代金1700万ドルを要求された実際の誘拐事件を題材にした作品。このときJ・P・ゲティが身代金の支払いを拒否したことでマスコミも騒ぎ立てた有名な事件。

当初はゲティ役をケビン・スペイシーが演じるはずだったが、撮影も終わり映画も完成した折も折にケビン・スペイシーが「事情」により降板、お蔵入りとなるかと思われたが、リドスコが「2週間で全部撮り直す」という無茶を敢行、完成させてしまうという、またリドスコが地獄を作ってしまった(現場的な意味で)意味でいわくつきの作品。しかしさすがというべきか、2週間で撮りなおしたとは思えないほど場面場面の画が美しく、一枚ずつ切り取った静止画ひとつひとつがまるで絵画のように映える。

息子を誘拐されたゲティ家の元嫁ゲイルは、息子を取り戻すために奮闘するが、とにかく味方といえる人間がゲティの側近である元CIAのチェイスくらいしかいない。祖父であるゲティは金を出し渋り、マスコミは事件を騒ぎ立てることに命を懸ける。この映画における警察の頼りなさは異常といえるほどで、これほどの大きな誘拐事件が題材だというのに警察所属のメインキャラクターがほぼ皆無。誘拐された本人であるポールもまた、地元の住民に助けを求めてはすげなく突き放されてばかり。まるで世界に信用できる人間がいないという祖父ゲティの世界を体験させられているかのように、世間全てが自分に牙を剥くかのような状況におかれることになる。

J・P・ゲティはありあまる資産を持ちながら、肉親の命の危機にすら金を出し渋るほどの極度の守銭奴だが、劇中で「家族ですらわしから奪おうとする。だからわしは物が好きだ」と言って芸術作品を買いあさる男。なんと孫の身代金は出し渋るくせに、まさに事件の最中に身代金に匹敵する額の絵を買ったり、馬鹿でかい豪邸の建設計画を悪びれもせず披露したりする。一応、公式サイトにおいてリドリー・スコットはゲティについて「彼の行動は偉人を偉人たらしめる要素が見える」だとか「誘拐犯と交渉しない現代の対応を先取りしたもの」とかほめたたえているようにも見えるんだが、この映画でのゲティはどう見てもただの度の過ぎた守銭奴でしかない。

実際の事件を題材にしながらもフィクションを混ぜ込んでいるので、お話としてはそれなりにスリリングな展開を見せるが、それにしても息子を誘拐されるという悲劇に対して世間というのはこうまでも冷淡で残酷な態度を見せるものなのかと途方にくれるような作品。母親ゲイルの気丈さだけがかろうじて良識を保っているような冷え冷えとした世界が描かれている。

ポールを誘拐した組織の、いかにも犯罪組織然としているわけでもなく、パートのおばちゃんが大量に並んで違法な仕事に従事している光景もまた生々しく、善悪などしっかりとした境界線があるわけではないのだと思わされる。

 

 

 

 

ニュータイプの負の歴史を背負った若者たち。「ガンダムNT(ナラティブ)」

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「ガンダムNT(ナラティブ)」2018年。

吉沢俊一監督。

ヨナ:榎木淳弥、ミシェル:村中知、リタ:松浦愛弓、ゾルタン:梅原裕一郎。

1988年公開の「逆襲のシャア」のその後から始まる「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」。その中で描かれた「ラプラス事変」終結の1年後の物語。

「UC」はバナージ少年の成長物語であるとともに、ニュータイプをめぐる人類の葛藤についての物語でもあった。その直後からはじまる今作では、ニュータイプについてのより具体的、実利的な側面に注目し利用しようとする者たちが描かれる。

「UC」においては、「ニュータイプ」とは人類の宇宙時代への祈りのようなものであり、希望であるとされた。しかしニュータイプ研究所による強化人間など、ニュータイプの戦闘能力のみに着目した人々によって実験を施され、人間性の喪失や命そのものも奪われる人々の負の歴史は確かに存在した。

本作では、ニュータイプの負の歴史を背負わされて今なお苦しみながら生きる人々が、ニュータイプが希望とされた世界で過去と対峙する物語となっている。具体的には、主人公の3人、ヨナ、ミシェル、リタは幼い頃に「コロニー落とし」による被害を感知したことで「奇跡の子供たち」と呼ばれ、ニュータイプ研究所に連行されて非人間的な人体実験を繰り返された過去がある。

主人公3人の複雑な三角関係を中心に、敵役であり「赤い彗星の再来計画」の失敗作である強化人間ザナタンの来歴も含め、「ニュータイプの呪縛」に翻弄された主人公たちが過去と向き合う模様が描かれるストーリーとなっている。

ニュータイプがサイコフレームに魂を定着させる能力に着目し、これを応用すれば人類は不老不死になれるのでは、といったSF的なアイデアが提出されたり、「ニュータイプは感染する」という新たな設定が飛び出したりと、福井晴敏の考えるニュータイプは富野ガンダムが投げたニュータイプ概念をヒントに、より独自の概念となりつつあるように感じる。というか、ほとんど超能力者と変わらない。この辺の設定の扱いは熱心な富野信者、宇宙世紀信者にどう受け止められるのか気になるところだが、まあガンダムの設定があとから書き換えられていくのは今に始まったことではない。

映像としては「UC」で描かれた「リアルで重厚なモビルスーツ戦」をベースに、現在のロボットアニメとして最高峰と思われるクオリティで描かれている。コクピットにエアバッグが装備されていたり、ビームライフルがまるで長いビームサーベルのように描かれているのが「UC」の特徴だったが、そのあたりの描写は健在。

さらに今作ではユニコーン3号機「フェネクス」の到底パイロットが耐えられないはずのデタラメな機動(最高速では光速に近くなる)などが見所。

ちょっと気になったのは、サイコフレーム搭載機同士の戦闘が描かれる設定上、各機が当たり前のようにサイコフィールドを投擲武器として投げ合うのだが、この原理不明の魔法か超能力のような力をバーゲンセールのように使ってしまうと、もはやロボットアニメとしてのメカニズムに対する設定考証はあまり意味をなさなくなってしまうのでは、とチラッと思いもした。やってることはドラゴンボールの気弾の投げ合いなので。

ラスボスもまたネオジオングなので、その辺もちょっと新鮮味に欠け、敵であるザナタンもよくいるコンプレックスこじらせ系イカレ男といった感じで、フルフロンタルなどに比べても格が一枚落ちる感が否めない。

良くも悪くも「UC」で創出したメカ設定をいじり倒したような作品。

あと個人的にはミシェルが新たなガンダムクソヒロイン列伝に名を連ねてしまうのではと危惧している。

しかし久々の1話完結のガンダム劇場作品(F91以来?)として、ミニマムな人間関係の物語を軸として戦闘シーン中心の作劇で2時間でしっかりまとめあげた監督と脚本の力量は本物。ガンダム好き、「UC」好き、ロボアニメ好きは必見の作品となっている。

「あいつ」も出るよ!

(ちなみに、スタッフロール後にもお楽しみがあるので、これからご覧になる方は最後まで見ることをおすすめします)

 

 

 

戦争に閉じ込められた男たち。「フューリー」感想

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「フューリー」(「Fury」)2014年。

デビッド・エアー監督。

ブラッド・ピット、ローガン・ラーマン、シャイア・ラブーフ他

 第二次大戦末期、ドイツ軍に包囲されながら進軍する連合軍の戦車小隊。彼らの戦闘と人間模様を、凄惨で泥臭い戦闘描写の中で描いていく。

 見所は戦車を存分に活かした戦闘シーンで、実際の戦車戦を目にしているようなリアルな描写。当たる弾丸の種類によって人体の損壊の様子が千差万別となっていて、グロいながらも説得力のある映像だった。戦車の主砲を直撃された人体が、文字通り吹っ飛んで跡形もなくなるなど。

特筆すべきはやはりドイツ軍の文字通りの虎の子、ティーガー戦車との戦いだろう。相手にはこちらの弾は通じず、相手の弾は一撃でこちらを粉砕するという絶望感。このシーンの音楽がまた、ラスボス感があってたまらない。

 余談だが、少し前に「バトルフィールドⅠ」で戦車戦を体験できるシナリオをプレイした。あのゲームでは戦車同士の戦闘は相手の側面を取り合うように動くのがセオリーなのだが、この映画でもやはり装甲の薄い箇所を狙って相手の側背面に回り込むような挙動になっていて、逆に「バトルフィールドⅠ」の戦車戦のリアルさを感じてしまった。 

 戦争という閉じた世界へ

この映画では、ローガン・ラーマン演じる「まともな感覚を持った」新兵ノーマンを通じて、観客もまた通常の倫理感を持ったまま非日常の世界である戦争へと連れ去られたかのような体験をすることになる。最初は無抵抗のドイツ人捕虜を殺すことに必死で抵抗し、自身の倫理観を手放すまいとしていたノーマンだが、仲間と状況に流され、次第に殺人への抵抗感を忘れ、戦闘に前向きになっていく。

 この映画で最も退屈で、しかしたぶん映画のテーマとしてはもっとも重要なのが、中盤のドイツの女性エマとドン、ローガン、小隊のメンバーのやりとりのシーンなのだろう。制圧した街で、女性を相手に紳士的にふるまい、束の間戦場を忘れようとするドン。それを「おままごと」と吐き捨て、戦争こそが現実だと断言する小隊メンバー。

目に見えない速度で飛来する無数の銃弾によって、自身が死んだことすら認識する間もなく、あっけなく命を失いかねない戦場にあって、倫理や人間性はあまりにも役に立たず、それを守るには人間は脆弱すぎる。

日常生活において美徳とされる倫理は、戦争に放り込まれ兵士となった人間にとっては180度反転し、殺人と獣性こそ身を守るたしなみと化す。長い戦争を戦い抜いてきたドンは、偶然訪れた平和な家と美しい女性を前に、「戦争外の世界」を束の間夢見るが、仲間たちによって「そこは現実ではない」ことを悟らされてしまう。

 クライマックスに至るシーンで、なぜドンがああも頑固に任務に固執したのか、首をひねった観客も多いのではないか。僕もそのひとりではあるが、ドンがすでに戦争以外の場所で生きることが考えられなくなっていたのだとしたら辻褄は合うのではないかと思う。おりしも戦争は終わりが近づきつつあり、ドイツの部隊のひとつやふたつ、大局には影響しようがない。普通に考えれば放ってやりすごせばいいものを、わざわざドンはたった戦車1台、それもキャタピラーがれて動けない戦車のみで迎撃すると決意した。

どう考えても、この決断は自殺以外の何物でもない。理由も特に語られない。

「それが俺たちの任務だ」

「ここが俺の家だ」

実際、それ以外の理由らしい理由はないのではないか。いくつもの戦場を生き抜き、仲間を導いてきたドンは、しかしあの家で、もう自分が平和の中で生きることができないと気づいてしまったのではないかと思う。

 最後の戦闘の間際、「マシン」という「洗礼名」を与えられたノーマンもまた、ドンの自殺に付き合うことを決める。彼は結局最後まで生き残り、友軍から「英雄だ」と称えられる。その台詞の空虚な響きと、残骸となった「フューリー」号を背景に、映画は終わる。「マシン」となったノーマンが人間性を取り戻せるのかは描かれない。この映画に「戦争」の外の世界は存在しないかのように。 

 ちなみにこの映画のメインキャストのうち、ローガン・ラーマンもシャイア・ラブーフもユダヤ人である。彼らがナチス・ドイツ相手に銃弾を撃ちまくるという構図も、「フューリー」というタイトルにふさわしいような。

「フューリー」というタイトルの通り、全編を通して怒りがぶっ放され、全てを燃やし尽くし、そして燃え尽きたあとの焼野原で立ち尽くす、そんな映画である。

 

 

 

 

 

「96時間リベンジ」に見るアルバニアの「負の慣習」

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「Hulu」で「96時間リベンジ」(原題「TAKEN2」)を見ることができたので、1作目を見て面白かったのに続編を未見だったことを思い出し、さっそく見てみました。

 とにかく安定して面白い「ザ・ハリウッドアクション」という感じで、本作でもリーアム・ニーソン演じる主人公が悪党どもをほぼ一撃で屠っていきます。

リーアム・ニーソン、僕が初めて認識したのはスターウォーズ「ファントム・メナス」だったんですが、まさにナイトといった高貴さと強さを感じさせる上品な役者という印象を持ったんですが。

年齢を重ねるごとになんかワイルドさを増し、今やハリウッド最強を堂々と争える漢となってしまいました。

「熊さんみたいで可愛い」という声も巷にはあるそうですが、例えば彼がプーさんの着ぐるみを着て愛想を振りまいたとして、グリズリーの突然変異以外に見えるかは疑問です。 

リーアムファンの方、ごめんなさい。

こんなこと言ってますが、僕はリーアム好きです。

 

主人公は元CIAの凄腕で、今は要人警護などをしています。

彼は悪党どもを震え上がらせる「特殊な能力」を持っていて、要は超強くて、前作では娘をさらった悪の組織を一人で皆殺し、今作でも妻と自分を狙った組織を一人で皆殺しにします。

「イコライザー」のマッコールといい、アメリカ人は元CIAを改造人間かなにかと勘違いしている気もしないでもないですが、まあ「元CIAはすげえ強い」という共通認識はわかりやすいので、娯楽映画には使いやすい設定ですよね。

アクションもいいですが、自身が拉致されて、娘の協力で連れてこられた場所を特定する場面も見ていてワクワクしましたね。

娘に向かって「そこらへんに手りゅう弾を投げろ」とイカれた指示を飛ばすんですが、その爆発音が自身に届くまでの時間でホテルからの距離を割り出すという。

対人アクションだけでなく、変則的ながらこういう追跡劇も見ごたえがあり、また娘をドライバーに据えた「世界一おっかない路上教習」ともいうべきカーチェイスも、なんだかんだ娘がだんだん慣れてきてテクニックつけていくのが親子なんだなあとほっこりしたり。

そのまま大使館にぶっこんでいくのはちょっとロックンロールすぎますが。

 

「血の復讐」ジャクマリャ

ところで、映画の最中ずっと妙に気にかかっていたのが、敵であるアルバニア人の組織が、異様に復讐に執着しているところでした。

今作の敵は、前作でブライアンの娘をさらい、ブライアンに殺されたマルコという男の父親で、ブライアンと家族を拉致して復讐をとげようと画策します。

もちろん息子を殺された父親という立場もわかるんですが、映画冒頭で写されるトロポヤでの前作の悪党どもの集団葬儀で、女性達も含めて村ぐるみで復讐を誓っている様子が、もはや私怨という範疇を越えて、なんだか土俗的なにおいまで帯びている気がしまして。

親族とはいえ、女の子をさらって売り飛ばすような稼業をしている犯罪組織の連中ですよ。

いつどこで野垂れ死んでもおかしくない商売柄なのに、残された遺族がこうまでも一丸となって復讐にこだわるものなのかと。

で、映画が終わった後に何げなく調べてみたら、アルバニアにはとある「掟」が今なお生きているということでした。

「カヌン」と呼ばれる、アルバニア氏族に古くから伝わる、生活にまつわる事柄を細部までさだめた「掟」。

その中に、「ジャクマリャ」、「血の復讐」とか「血讐」などと呼ばれる項目があります。

内容は、「一族の人間が殺された場合、その犯人の一族の男性を復讐として殺せる」というものです。

これは「法律」ではなく、それ以前の、あくまで集団の中の「掟」なのですが、政変などにより長い間治安が不安定なアルバニアでは、この「ジャクマリャ」がまかり通り、今でも子供を含む多くの男性が復讐を恐れて隠れ住んでいる現実があるそうです。

www.afpbb.com

シリーズ通して主人公ブライアンを狙うアルバニア人組織の執念の背景には、こういった民族的な慣習の背景もあるようですね。

 

今作の主人公ブライアンと敵のアルバニア人の戦いをあらためて俯瞰してみると、どちらの動機も「家族を守るため」「家族の復讐のため」という、家族の存在が動機となった戦いです。

劇中で、ブライアンが殺した前作の悪党の父親に「娘をさらったから殺した」と言い、父親が「理由なぞ知るか!お前が息子を殺した!」と言い返すシーンがあります。

一見、敵の父親のほうが無茶苦茶で、ブライアンには正当な理由があるようにも見えますが、「自分の家族のために他人の家族を殺す」という点において両者は同レベルにあるとも言えます。

この映画で描かれているのは、正義対悪の戦いなどではなく、アルバニアにおける「血の復讐」の連鎖のような、どこまでも果てしない報復の連鎖です。

クライマックスでブライアンは、敵のボスに「もうこんなことは疲れたんだ」と、復讐の連鎖を終わらせることを提案しますが、結局はそれも裏切られ、つまるところひとつの状況が終わったに過ぎないことがわかります。

ブライアンはこの先も家族と自分を組織の復讐から守っていかなければならないし、それがまた復讐を呼ぶでしょう。

戦争が、現代においてもなお起こり、終わらないのは、つまりはこの映画のような連鎖に陥って歯止めが効かないからという部分もあるんだろうなと思います。

そういう意味で、この映画の「戦い」はとても原始的で、根源的なものであるのかもしれません。

まあ、そんな深いこと考えてみる映画でもないので、イスタンブールの街並みをバックにリーアムが悪党をちぎっていくのをポテチでもつまみながら眺めてるのが最高に楽しい作品だと思います。

「96時間リベンジ」は、今なら前作「96時間」と一緒に「Hulu」で配信してます。