怪盗シネマ

cinema,book,boardgame

【ネタバレ感想】ゲーム『The Last of Us part Ⅱ』〇〇〇編はなぜ必要だったか?

『The Last of Us part Ⅱ』(2020年、アメリカ) 

以下、ネタバレ厳禁とされている本作をネタバレ全開で語ります。プレイを終えた方に向けた記事ですので、プレイ中の方、プレイ予定の方は引き返していただいたほうが無難です。↓画像下からはじめます。

f:id:rupankit:20200709001545p:plain

引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#about

賛否両論である。

それも無理からぬこととは思う。誰だって気持ちよく撃って倒した相手の名前を知りたくはないし、ましてそいつの友達や趣味やどんな冗談を言うかなんて知りたくはない。自分があっさり殺した犬がいかに賢く愛らしかったか、なんて知りたくない。このゲームはプレイヤーにゲーム内での「所業」を突きつける。ゲームであるということがここまで暴力的な機能を果たす作品がかつてあっただろうか。このゲームを前に反発するなというのは、ちょっと難しい相談ではないかとすら思う。極端な言い方をすれば、このゲームは敵を倒せば倒すほど、物語上の仕掛けによって自身が「罰される」ゲームなのである。気持ちよくゲームしたいだけのプレイヤーほど相性が悪い。かといって戦闘は極上に面白い。面白ければ面白いほど、自分の業を突きつけられる気分になる。こういった点が、ただ不条理な現実を忘れて前作のようなエリーとジョエルの絆の物語に浸りたかっただけ、というユーザーから煙たがられているようだ。

しかしながら、超傑作である。プレイヤーがどんなに重苦しい気持ちになろうと、その気持ちが重いものであるほど、それはこのゲームが傑作である証明なのだ。好き嫌いで言えば嫌いなほうだが、それはこの作品のクオリティを否定するものでは全くありえない。

語るテーマはいくらでも掘り出せそうな作品ではあるが、この記事では主に物語について、特に多くのレビューが述べている「アビー編はいらなかった」という感想について、反論というか、自分の考察のようなものを書いてみたいと思う。

f:id:rupankit:20200709002833p:plain

引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#lg=1&slide=52

・なぜアビー編が必要だったのか?

結論から言えば、アビーはジョエルだからである。アビー編をプレイしていて、薄々感じた方も多いのではないだろうか。大切な家族を失い、失意から個人的な幸福より危険な任務や復讐を優先してきた来歴も似ているし、行きがかりから助けたレブを連れての旅路はそのまま前作のジョエルとエリーを彷彿とさせる。結果的にアビーはレブを助けるために仲間であるWLFを裏切るが、これも前作のラストでエリーを助けるためにファイアフライを多数殺したジョエルの姿と重なる。そもそもアビー編のプレイ感もジョエルのようなパワータイプのものであり、アビーはかなり意識してジョエルに寄せられたキャラクターだと感じている。

もちろんそれを知っているのはプレイヤーである我々だけであり、エリーにはそんなことを知る機会は最後まで訪れない。しかし構図として、エリーが追っていたのはジョエルであったとも言える。この物語はある意味では徹頭徹尾「エリーとジョエルの物語」でしかなく、その意味で間違いなく『The Last of Us』なのだ。

ここでエリーにとってジョエルがどのような存在であったかを考えよう。もちろんまず父親的な存在であっただろう。命の恩人でもあり、前作の長い旅路で心を通わせた親友でもある。一方で、今作において最も重いのが、ジョエルがエリーの免疫からワクチンを作ることを阻止したという事実だ。前作ラストにおいて、エリーからワクチンを作るにはエリーを死なさなければならないと知り、ジョエルは世界よりもエリーを選び、医師を含む多数の人間を殺してエリーを病院から奪い去った。今作ラスト付近で、この事件へのエリーの率直な気持ちが語られることになる。

「生きてたって証を残せたかもしれないのに、それを奪ったんだよ」

これが、ジョエルが世界と引き換えにエリーを選んだことに対する、エリーの気持ちだった。「生きた証」。犯罪を抑止する法律も警察もなく、荒廃し、危険が闊歩し、いつ死ぬともわからない日常で、人が「生きた証」を残すとはどういうことか。ここでのエリーの憤りは、決して「世界のために」とか「自分が犠牲に」といった綺麗ごとによるものではない。利己的なまでの自身の存在意義への欲求だ(エリーは同性愛者であり、愛する人と直接子供をもうけることもかなわない)。おそらくこの荒廃した世界では誰もがこういった「夢」を密かに抱き、しかし多くの場合それは叶えられず、犬死に近い最後を迎えていくのだろう。WLFの掛け声「生き抜く力を」「そして安らかな死を」という言葉には、この世界に生きる誰もに響く切実な祈りが込められているはずだ。そんな世界での価値観において最上に近い最期を迎える機会をジョエルは奪ってしまった。そして自分の命と引き換えに荒廃しつづけなければならない世界を背負わされてしまった。

エリーにとって、ジョエルは父であり、父とは多くがそうであるように、自身に重すぎる世界を背負わせた張本人だった。エリーはジョエルを憎んだ。それはジョエルへの愛情と矛盾しながらも両立してしまう感情だ。

「このことは一生許せないと思う。」「でも、許したいとは思ってる。」

f:id:rupankit:20200709003057p:plain

引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#lg=1&slide=20

しかし、そういった屈託を抱えながら、それでもジョエルと共に生きていくことを表明した翌日、ジョエルはアビーに殺されてしまう。自身の憎悪と愛情の、これからの人生の指針を奪われたエリーは、アビーへの復讐を誓い追跡を開始する。エリーにとって今作の旅は失われたジョエルを追う旅であり、アビーへの憎悪は激しくはあるが本質ではない。決着をつけたいのは本当はアビーではなく、自身の中のジョエルである。おそらく最後の最後で、エリーはレブを必死で守ろうとするアビーとジョエルを重ね、そのことを悟った。「もう一度チャンスが与えられても、同じことをするだろう」というジョエルと、今目の前で子供を守ろうとするアビー。この瞬間のためだけに、アビー編はあったと言ってもいい。アビー編がなければ、ここでエリーが彼女らを逃がす意味がわからなくなってしまう。エリーは最後の夜にジョエルに告げた「許したいとは思っている」という自身の言葉によって、「ジョエルを殺す」ことだけは避けることができたのだろう。

全てを終え、帰宅したエリーを待つものは何もなかった。愛しい恋人も、可愛い赤ん坊も。アビーとの闘いで指を失い、ジョエルからもらったギターを満足に弾くこともできなくなった。ギターを窓辺に立てかけたエリーは、訣別するように歩き去る。エンドロールでは、ぎこちなくエリーとジョエルが声を合わせている。エリーはある意味で、ジョエルを本当に失うことで歩みだすことができ、許すことができたのではないか。復讐はあらゆるものを奪い、何も残さないからこそ。

 

【ネタバレ感想】映画『ハドソン川の奇跡』男の判断は奇跡か無謀か

f:id:rupankit:20200708001116p:plain

引用元:https://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/

『ハドソン川の奇跡』(2016年、アメリカ。原題『sully』)

監督:クリント・イーストウッド

主な出演:トム・ハンクス、アーロン・エッカート。

 2016年1月15日にアメリカで起きた実際の飛行機不時着事故がテーマの作品。ニューヨークのラガーディア空港発シャーロット行USエアウェイズ1549便が、離陸直後に鳥の群れとの接触(バードストライク)によりエンジン停止となり、チェスリー・サレンバーガー機長(サリー)と副操縦士ジェフ・スカイルズはとっさの判断によってハドソン川へ緊急着水を敢行する。サリーの操縦技術と数多の幸運によって大事故にもかかわらず乗員乗客155名全員が生還、この事故は「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ瞬く間に全米へ知れ渡り、機長サリーはマスコミらによって一躍「英雄」とされた。ところが事故調査委員会はサリーの判断を疑問視。コンピュータによるシミュレーションによれば、バードストライク直後に空港に引き返せば無事に着陸が可能との結論が出たという。果たしてサリーの決断は誤ったものであり、英雄は一転して「戦犯」となってしまうのか。

 事故の当事者であるサレンバーガー自身の著書『機長、究極の決断』を原作に、クリント・イーストウッドがサスペンス仕立てに映画化。生死を分ける極限の事故、そしてその後の世間からの英雄視、事故委員会による追及と立て続けの状況変化にさらされていく事故の当事者を、機長サリー役トム・ハンクスと「ダークナイト」でおなじみアーロン・エッカートが演じる。

サスペンス仕立てとはいえ、世界的にも有名な「奇跡」の事故を題材にしているわけで、特にアメリカ公開においては事件の顛末そのものは多くの観客が承知したうえでの視聴を想定しているはず。そのうえで、主にプロフェッショナルとしてのサリーの、自身の判断と周囲の認識のズレによる苦悩、突然英雄に祭り上げられてしまった一市民としてのとまどいの様子を中心に映画は進行していく。緊張感漲る事故の最中のシーンと、調査委員会によるサリーへの追及のシーンが交互に挟まれる作劇は正解だと思う。冒頭に事故シーンを全て終えてしまっていたとしたら、後半がダレてしまったと思う。事故シーンではイーストウッド監督は実際のエアバスを購入して撮影にあてたという力の入れよう。

シナリオ面では、どうしても予定調和の物語となってしまうのは作品の性質上避けがたく、それでもやはり事故当時の極限の選択を迫られるシーンや、公聴会でのコンピューターシミュレーションへの反論など、全体として緊張感を保ったままの90分となっており、さすが巨匠というところ。2時間はもたないだろうし、ちょうどいいランニングタイムだろう。

バードストライク直後に引き返せば間に合った、というシミュレーション結果にサリーは追い詰められてしまうのだが、それに対して「状況把握と決断までの思考に30分以上はかかり、シミュレーションはその「人的要因」を外している」という反論は、逆に言えばその30分で「正解」が全く違ったものに変わっており、刻一刻と「正解」が変化する状況判断の極度の難しさと機長の判断の高度さを如実に表している。「事件は現場で起きている」のだ。

面白かったのは、有名人となったサリーに対するニューヨークの人々の接し方で、彼らはサリーを英雄として崇拝するというより「俺たちの仲間がすごいことをやったぜ」と親近感たっぷりに誇っているところ。これが日本だと、有名人というのはもっと近寄りがたく、崇拝に近いもち上げられ方をするのでは、と思った。

この事故の起こった2009年付近のアメリカは、イラク戦争やリーマンショックによる金融危機により人心にも不安や不信感が拭いきれず、「ハドソン川の奇跡」とはそんな中で新年早々に駆け巡った久々の朗報でもあった。サリーへの過剰とも言える英雄視は、そういったアメリカ社会の鬱屈に対する反動ともとれる。

『ハドソン川の奇跡』は現在アマゾン・プライムビデオにて見放題サービスで見ることができる。(2020年7月現在)

 

 

 

【ネタバレ感想】映画「キングダム」体のキレで人が死ぬ

映画「キングダム」5.29 金曜ロードショーにてノーカット地上波初放送!

(C)原泰久/集英社 (C)2019映画「キングダム」製作委員会

「キングダム」(2019.日本)

初っ端から脱線するが、2006年の平成仮面ライダーシリーズ「仮面ライダーカブト」を見ていた方は、作中に突然前触れもなく現れて、変身もせずに素手でガタックをボコボコに殴りだした、異常に強い敵キャラクターがいたことを覚えているだろうか?

その場面のインパクトたるや、明らかにその男だけ動きが「浮いている」印象だった。特に特別なバックボーンも由来も持たない、役柄上ではやられ役に過ぎないはずのいち怪人が、しかしただひたすら生身のまま強いのである。というか、怪人に変身すると弱くなる。

この仮面ライダーを生身で圧倒する男の名が坂口拓だと、本当に遅ればせながら知ったのが、この映画「キングダム」を見た後だった。狂気の人斬り「左慈」の、その殺陣の異常なまでのキレに既視感を覚え、思いあたったのだ。「ああ、この男はあのライダーボコボコ男だ」と。顔はいまいち覚えていないのに、殺陣のキレで思い出すなんて初めてだ。

f:id:rupankit:20200704011245p:plain

©石森プロ・東映


現在(2020年7月)Amazonプライム・ビデオにて見放題サービスになっている、映画「キングダム」。原泰久が現在も連載中のコミック「キングダム」の実写映画化作品だ。

中国の春秋戦国時代を舞台に、将軍への野望に燃える若者信、後に史上初の中華統一を成す始皇帝となるエイ政を軸に繰り広げられる歴史スペクタクル絵巻。

実写化にあたっては、原作者原泰久自ら脚本を起こし、原作1巻から5巻までの内容を過不足なく、そしてかなり忠実に2時間半の活劇に落とし込んでいる。

監督は「GANTS」「いぬやしき」「アイアムアヒーロー」など日本のコミック実写化を多数手がけてきた佐藤信介。

アクション監督は佐藤監督と多くの作品で手を組んできた下村勇二。ゲーマーの方には「デビルメイクライ」や「無双」シリーズのオープニングムービーのアクション監督をやっている人と言うとわかりやすいかもしれない。

キャストは、主人公の野望に燃える直情径行型剣士信に山崎賢人。信の親友漂と後の始皇帝エイ政のダブルキャストに「仮面ライダーフォーゼ」でメテオを演じた吉沢亮。「山の王」として屈強な戦士を束ねる女王楊端和に長澤まさみ。その他に橋本環奈、本郷奏太、高嶋政宏、大沢たかおなど実力派が脇を固める。

キャストについての感想は、まずやはり長澤まさみが頭一つ抜けてよかった。いい意味で本人のイメージを裏切り、屈強な山の戦士を実力で束ねる女傑としての美しさと強さをしっかり表現していた。容姿ももちろんだが、意外だったのがその声音の貫禄と通りの良さ、命令口調の響きの心地よさ。しっかり芯があってよく通り、鳥肌が立つほどかっこいい。長澤まさみに貫禄を感じる日が来るとは。個人的には、「クローズゼロ」でそれまでのイメージを覆してきた山田孝之を見た時のような驚きを感じた。

吉沢亮は近年人気が急上昇したイメージがあるが、「フォーゼ」で見せた生身のアクションを知っているのでアクションに信頼がおけるのはわかっていた。しかしながらダブルキャストを表情と声音で演じ分ける演技力、エイ政の冷徹さと孤独、内に秘めた熱情とまっすぐさをあくまでクールに演じた実力は、長澤まさみと共にやはり今作のMVPにふさわしい。

そして主人公山崎賢人だが、どうしても信としては顔の甘さがぬぐえず、周りを固めるキャスト陣が本当に違和感なく世界を作ってくれている中で、その違和感がつきまとった。しかしながら、この物語は基本的に駆け出しの信が曲者ばかりの周囲とわたりあっていくものであり、その点から見れば、実力派ぞろいのキャスト達に挑むかのような演技はたしかに主人公信であったともいえる。

その他では高嶋政宏の昌文君は本格的すぎて、他のキャラがアクロバティックに派手アクションきめてる中でひとりプライべートライアンみたいな悲壮感を漲らせていたり、たぶん唇がキャスティングの決め手になったと勝手に思っている大沢たかおの王騎将軍は少ない出番ながら作りこんでいた印象。王騎が戟を振るう無双シーン、よく見ると腋毛を処理していた(ように見えた)のは、原作ではどうだったか知らないが王騎なら処理してるよな、と謎の納得をしてしまった。

映画全体としての方向性は、贅沢な画作りながらあくまで「実写漫画」として作られており、リアリティよりは荒唐無稽でも派手さを重視する方向。コミックの世界観を実写に落としこむにあたり、あくまで実写としての画の面白さ、美しさを目指して作られている。人はワイヤーやCGでばんばん飛ぶし吹き飛ぶし、物理学的にありえない動きもする。それらに違和感がないかというとウソになるが、特にアクションのスピード感は素晴らしく、荒唐無稽ながら見入ってしまう剣劇シーンが数多くみられる。

その最たるシーンが、冒頭にも書いた坂口拓演じるラスボス「左慈」とのバトルだ。

映画『キングダム』左慈役 坂口拓 Tweet まとめ

(C)原泰久/集英社 (C)2019映画「キングダム」製作委員会

そもそも原作では、左慈→ランカイという順に登場し、ラスボスの立ち位置はランカイだったのだが、映画ではランカイがまず倒され、ラストに立ちはだかるのが左慈に変更されている。その理由は見れば瞭然、左慈が、坂口拓が強すぎて、ランカイとのバトルシーンが見劣りしてしまうからだ。この順番の入れ替えは大正解だろう。ひと息で3人の喉を切り裂き、敵が一太刀入れる間に二太刀で返し、居合で巨大な柱や取り巻きの文官どもごとぶった切る。あくまで淡々とした表情で、無情に剣を振るって屈強な戦士たちを屠っていく。明らかに異質で異次元の動きのキレ。見ている我々にも、信と左慈の、そして山崎賢人と坂口拓の実力差が圧力となってのしかかり、息苦しいほどの戦闘が繰り広げられる。もちろん信はこの左慈に勝たなくてはいけないのだが、なんか勝つと嘘臭くなるのではと心配してしまう。それほど、動きが違いすぎて勝てる要素が見当たらない。最後の逆転はしっかり修行の成果を発揮して勝負を決めたので綺麗な終わり方ではあったのだが。ともあれ、改めて今後のアクション映画では坂口拓というアクション俳優を見逃してはならないだろう。というか、今まで見逃していて本当に自分のにわかぶりが身に染みた。ちゃんと映画見よう。

続編製作もはじまっている「キングダム」。坂口拓の左慈は死んだので続投は難しいだろうが、「ザ・レイド」のヤヤン・ルヒアンみたいに、1作目で死んでも別の役でまた出てきてくれないかな、と望んでしまうくらいに気に入ってしまった。

映画「キングダム」は現在(2020年7月)アマゾン・プライムビデオで見放題対象作品になっているので、未見の方は続編前に見ておくことをおすすめする。今作はコミック未読でも問題なく楽しめる物語になっている。

 

「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」

f:id:rupankit:20200123235840j:plain

「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」(2019)

監督:J.J.エイブラムス(「スーパーエイト」「SWフォースの覚醒」)

脚本:J.J.エイブラムス、クリス・テリオ(「アルゴ」「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」)共同脚本

製作:J.J.エイブラムス、キャスリーン・ケネディ(ルーカスフィルム社長)、ミシェル・レイワン(バッド・ロボット)

音楽:ジョン・ウィリアムズ

撮影監督:ダン・ミンデル 

プロダクションデザイン:リック・カーター、ケヴィン・ジェンキンス

衣装:マイケル・カプラン

クリーチャー特殊効果:ニール・スキャンラン

視覚効果スーパーバイザー:ロジャー・ガイエット

製作会社:ルーカスフィルム、バッド・ロボット・カンパニー

配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ

キャスト:デイジー・リドリー、アダム・ドライバー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック、ビリー・ディー・ウィリアムズ、キャリー・フィッシャー、マーク・ハミル、イアン・マクダーミド

 

以下ネタバレ含みます。

出遅れましたが観てきました、9部作完結編!

まずは世界最高峰の予算、物量、人材を集めて作り上げられた映像の1カットずつを眺めているだけで楽しいので、基本的に退屈するということはない。そのうえで、物語的には色々とアレなところもある。

特に重要な役どころであるカイロ・レンの行動原理がいまいち筋が通っていないように見えるし、もちろんそういう迷える若者というキャラクターであるのはわかるのだが、それにしてもレイアが一言「ベン」と呼びかけただけでころっと改心してしまうのは、ちょっとちょろすぎるのでは。

パルパティーン復活もどうしても場当たり的な印象をぬぐえない。(最もこの再登場のおかげで、イアン・マクダーミドが全世代の物語に出演することができたという功績もあるのだが)。スノークのことは忘れるんだ。

しかし、とにもかくにも、1977年から始まり約40年、アナキン誕生から作中年月にして約80年近くに及ぶ壮大な物語、世界空前の大ヒット作にして全9部作という超巨大プロジェクトが完遂されたことの意義の前では、ただただ頭を垂れるしかない。

「最後のジェダイ」制作後、メインキャストの一人でありレジェンドでもあるキャリー・フィッシャーが亡くなるが、これも40年という長きにわたるプロジェクトならではの事態といえる。今作のキャリー・フィッシャーは「ローグワン」のターキンのようにCGで作り上げたものではなく、過去作の未採用カットをもとに作り上げたものらしい。(ごく一部をキャリーの娘ビリー・ラードが演じることもあったという。ビリーはレジスタンスのコニックス中尉としても出演。母と激似!)

https://theriver.jp/tros-leia-billie/

両親に捨てられたと思い込み、自分が何者であるかも知らず、寄る辺なく生きるしかなかったレイが、旅の果てにタトゥイーンで「スカイウォーカー」という名をひとり選び取るラストシーン。

「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」繰り広げられてきたジェダイと人間達の歴史が、一人の少女の旅の果てにそっと重なる結末は、とても詩的で美しいラストでした。

 

以下パンフレット情報(通常版のみ)

1100円、64p(広告抜きで)

・あらすじ(劇中不足している部分の補完もあり)

・キャラクター紹介

・舞台の惑星紹介

・メカ、武器、アイテム紹介

・キャスト、スタッフインタビュー

・高貴準三「スカイウォーカーのレガシー」

・「スター・ウォーズ」銀河におけるスカイウォーカー一族中心の年表

・小林淳「ジョン・ウィリアムズと『スター・ウォーズ』」

・コンセプトアート集(6ページ)

・相馬学「フォースにバランスをもたらす者 スカイウォーカー家の歴史」/シリーズ作品解説

・末尾16ページがグッズ広告

f:id:rupankit:20200124002900j:plain

 

 

 

意識が見る永い夢の先/柴田勝家「ヒト夜の永い夢」ネタバレなしレビュー

       f:id:rupankit:20190926002508j:plain

柴田勝家「ヒト夜の永い夢」(ハヤカワ文庫JA)、2019年。

いわゆる「伊藤計劃以降」と呼ばれ、事実伊藤計劃に影響を受けたと公言する異形の(笑)SF作家柴田勝家の手になる一大伝奇大作。(どの辺が異形かというと、まず柴田勝家であるし、柴田勝家なのにSF作家だし、ついでに外見も柴田勝家まんまなので、ある意味では存在そのものがセンスオブワンダーを体現している。)

物語は昭和2年から昭和11年にかけて、天才博物学者南方熊楠を主人公にして展開する。南方は超心理学者福来友吉の誘いを受け、学会の本筋を離れた学究の徒の秘密集団「昭和考幽学会」に加わり、そこで学会の粋を集めた思考する自動人形「天皇機関」を今上天皇にお披露目しようと画策する。「天皇機関」とは、南方の研究する粘菌の働きによって自ら思考し行動する、人の死体を肉体とした機械人形だった。しかし「天皇機関」は、日本という国の影で暗躍する人物たちに目を付けられ、南方達との激しい争奪戦が繰り広げられることになる。そして事態はかの二・二六事件へと繋がっていく。

「天皇機関」、そして粘菌を巡る活劇と思索の中で、意識とは何か、夢と現実の違いは何か、並行世界をめぐる考察など、人間の脳と意識についての目くるめく議論が昭和の偉人・怪物たちによって交わされていき、著者の問題意識を濃厚に映しながら決して娯楽であることを忘れない、傑作昭和伝奇SFだ。

ヒトの意識をめぐる物語、そして粘菌、と来れば多くのSFファンは伊藤計劃・円城塔共著「屍者の帝国」を思い浮かべるだろう。

まず間違いなく本書は、伊藤計劃の影響を受けたと公言する著者が、「屍者の帝国」を受けて著した自分なりの「屍者の帝国」であろうと言える。歴史の名だたる偉人が実名で登場するプロットも共通している。本作の粘菌と人間の脳を巡る一連の考察は「屍者の帝国」で為された菌類と意識についての記述を受けてのものとも読める。なにより死体に粘菌コンピュータを組み込んで機械人形として起動するというアイデアは「屍者」を強く想起させる。

ただし、これらの要素を先行作から受け継ぎつつも、舞台は昭和の戦前日本、物語のトーンもどこか能天気で無邪気な明るさが漂い、著者柴田勝家のキャラクターが大きく滲んだものになっている(南方にゲロビを撃たせる下りは、絶対やるなと思っていたら本当にやったので笑った)。その雰囲気は江戸川乱歩をはじめとする昭和の大作家たちへのリスペクトももちろんあるだろうが、ほぼ同時代を描いた京極夏彦の「百鬼夜行」シリーズなどにも通ずるものがある。

そして本作では、「その先」、意識の正体が判明し、ヒトがそれを自由に扱えるようになったとして、その先にどんな光景が広がり、そこでどんな選択をするのか、その果てにどこへ行きつくことになるのか、というところまでたどり着いてみせるのだ。(ここで驚いたのは今話題の伴名練「なめらかな世界と、その敵」とダイレクトにリンクする「平行世界」テーマのアイデアで、下された結論、メッセージも似ている。同時代、ほぼ同時期に刊行されたSF作品が「平行世界」について一致した解釈を披露したという事実は記憶にとどめられるべきだろう。)

 博学の怪物南方熊楠の生涯と思索の軌跡を追いながら、粘菌コンピュータを絡めた奇想を通じ、古来よりの仏教思想と絡み合って展開していく平行世界に関する議論はひたすら圧巻。民俗学専攻ながらSFという科学的知見の最先端を扱うフィクションを扱う著者ならではの、科学と宗教のハイブリッドな知恵が交わされる議論は、言語としても眺めていて美しい。

扱うテーマ的にも、史実と奇想が交じり合うプロットにしても、まさに荒俣宏「帝都物語」の最新アップデートといっても過言ではなく、SFファンはもとより、ケレン味溢れる伝奇エンタメを求めている方も間違いなく楽しめる一冊。

秋の夜長、奇妙な永い夢を楽しむつもりでひとつ。

 

 

 

 

最も説得力のある宇宙を描く作家が描く「海」 小川一水「群青神殿」レビュー(ネタバレなし)

         f:id:rupankit:20190916232202j:plain

小川一水「群青神殿」ハヤカワ文庫JA、2019年。

今年の頭に超大作「天冥の標」全10巻を完結させたSF作家小川一水が、2002年にソノラマ文庫から出したタイトルの復刊。

「小川一水の描く『海』『空』『陸』」という帯で、今作の他にも「疾走!千マイル急行(上・下)」「ハイウイング・ストロール」の2作品が装丁も新たにハヤカワ文庫から同時復刊されている。

筆者が小川一水を知ったのは「天涯の砦」が出た頃で、おそらく当時大学生だったかと思うが、その頃にはもう小川一水は本格SFの書き手としてだいぶ売れていたようだ。早川書房より出した「第六大陸」で星雲賞を受賞し知名度が上がったということだが、それ以前の作品はなかなか新刊では手に入りにくい状況だったので、今回の復刊は素直に嬉しいし、復刊というよりは小川一水の新刊が一挙3作も刊行されたように感じ、「天冥」完結からしばらくはペースダウンするのかと思っていたファンとしてはちょっとしたサプライズプレゼントでもあった。

さて、本書の内容だが、舞台は帯と表紙が示すとおり、ずばり海洋。主人公であるメタンハイドレート試錐艇「デビルソード」のパイロット鯛島俊機と見河原こなみは、とある自動車運搬船の沈没事故の調査を依頼される。それはいまだ人類が遭遇したことのない謎の存在「ニューク」を巡り世界中を巻き込む一連の騒動の始まりだった。「ニューク」をめぐって日本海自が、フランス、フィリピン海軍が、そして強大なアメリカ第7艦隊までもがそれぞれの思惑を胸に活動を開始する。はたして「ニューク」の正体は何なのか。船舶を襲い沈めてしまう「ニューク」によって海から締め出された人類は、再び海を取り戻すことができるのか。

本作の主役は、メタンハイドレート試錐艇「デビルソード」のパイロット鯛島とこなみ、そして支援母船「えるどらど」の乗員たちだ。いつでも冷静沈着でややテンション低めな鯛島、海を愛し海に愛される天真爛漫なこなみの主人公コンビのほか、できるキャリアウーマンと欲望に忠実な海洋生物学者の顔を併せ持つ仙山悠華、しぶい歴戦の船長伯方といった、1巻読み切り作品とは思えないほどキャラ立ちの濃い面々が登場してくる。特に、小さな漁船の主にして、元フィリピン海軍少将、かつて軍事演習で唯一アメリカ海軍の鼻をあかした伝説の「白髭提督(アドミラル・ゴーティー)」の異名でアメリカ第7艦隊司令を狼狽えさせる静かなる海の男アルワハブは、彼のスピンオフで軽く長編が書けそうなほど魅力的なキャラクターだ。

そんな彼らが挑むのは、砲弾をも跳ね返す強固な外殻を身にまとい船舶を襲撃する謎の存在「ニューク」。この謎の存在をめぐり世界各国の海軍がしのぎを削る中、「えるどらど」もまた「ニューク」の謎をつかむために騒動に身を投じていくことになる。

 

小川一水の魅力である、船やメカニックについてのリアリティ溢れるディテール描写は、この頃からもうしっかり根付いていた(本人はあとがきにて「ディテール控えめ」と書いているが、個人的には物語の邪魔にならない必要充分な配分に感じた)。

小川一水の魅力は、地に足のついた誠実な科学考証と、読者をぐいぐい引っ張るストーリーテリング、そして地に足がついた地点からいつのまにか見たこともない風景を見せてくれる構想力だと思う。

「地に足のついた科学考証」というのがどんなものか。最も説得力のあるエピソードは、「SFの書き方『ゲンロン 大森望 SF創作講座』全記録」内で、小川一水が講師として檀上に立った回の冒頭の記述だろう。小川は、教壇や机、椅子や床材など、室内のあらゆる道具の材質を諳んじてみせた。あるいは科学の徒なら当たり前の教養であるのかもしれないが、この「高校までの理系科目なら現役で毎回100点とれそう」感が小川一水の作品にどっしりとした安定感とリアリティを与え、科学の素人である私などをも含む読者に安心して物語に没頭させてくれるのだ。

余談だが、この「目に入るもの全ての名前を言える」ことは、作家を目指す人間にとっても非常に重要で普遍的なスキルかと思う。名前を知らないものについては書けないのだ。こういう点をとっても、小川一水という作家は「当たり前のことを当たり前にやり続ける」作家という印象を持っている。その結果として、誰も見せえなかったビジョンを描ける作家なのだ。

 17年前に書かれた本作でも、その安定感は健在。決して飛躍せず(しているように見せず)、リアリティを放棄しないまま「未知の海洋」を描き出すことに成功している。

 

「最低。」レビュー

f:id:rupankit:20190911033748j:plain

© 2017 KADOKAWA

瀬々敬久監督(「ヘブンズストーリー」「ロクヨン」)

出演:森口彩乃 佐々木心音 山田愛奈 高岡早紀 ほか。

 

人気AV女優でもあったタレント紗倉まなの小説作品「最低。」の映画化。

「AV」と関わりを持つ3人の女性の物語。一人は人気AV女優、一人は初めてAVの世界に足を踏み入れ、一人は母が昔AV女優だった。

まず正直に告白するが、今作はアマプラ特典対象になったのを見かけ、ぶっちゃけエロそうだったので見はじめました。

しかしながら、ラストにさしかかり、エンドロールに流れる歌とビルの屋上で都会を見渡す佐々木心音のしなやかな姿を見ながら、まさかこんな余韻に浸ることになるなんて、と良い意味で予想を裏切られる作品だった。

映画が一貫して描くのは、本人の漠然とした苦悩と焦燥感、そしてその家族との関係だ。

断っておきたいのは、この作品は決してAVを頭ごなしに否定するものではない。かといって決して肯定するものでもない。ただそこにある現実として、あるいは日常に行き詰った人間の逃げ場として、その他様々な理由の果てに、たしかにそこに「在る」というだけのものだ。

本作の描くAV出演はどこか自傷行為にも似ていて、承認欲求や日常からの脱却、あるいは周囲への反発や復讐が動機となっており、単純にお金が動機である女性は本作にはいない。

本作はAVを否定はしないが、そこに関わる女性の人生はどこか閉塞感にあふれて息苦しく、不安に満ちている。

今の世界において、少なくとも日本においては、まだまだAV業界は「恥」を背負わされているのが現実だろう。ユーチューバーやニコ生主が一般的になり、ネットでのライフストリーミングがごく身近になってプライベートの在り方も大きく変わりつつある昨今でも、「裸」と「セックス」はいまだ究極のプライベートであり、これをさらけ出すことは大きなリスクが伴うとされる。

母親にばれ、電話で問いただされる場面の佐々木心音の表情はあまりに真に迫っている。AVに出演することは恥ずべきことであり、今後の人生を棒に振りかねない重大な過ちであるというのが世間の認識であり常識であるとされている世界で、AV女優という職業はあまりに生きにくい。

にもかかわらず、そこには確かに女性が求める何かがあることも確かなようで、「どこか漠然とした場所から抜け出すために」彼女らはAVに出るという。

劇中の、

「おねえちゃん、どうなりたいの?」

「なりたいものにはだいたいなってる」

というやりとりが、彼女らの心をとりまく事情の複雑さ、底深さをよく表している。

「(家に)戻れるわけないじゃん!そういう仕事してるんだよ!」「でもそれがあたしの仕事だから」

この台詞が全てだろう。

周囲の目と、自分の心と、そして職業としてのプライド。

本作はAV出演者とその家族にスポットを当てた構成となっているが、その家族は決してAVという仕事に対して安易に理解を示すことはない。ただ、理解できないまま、時に取り乱しつつも、それでも当人を気づかい心配する姿勢は変わらないということも描かれている。人と人が寄り添うのに、お互いを100%理解する必要はないのではないか。

ラストシーンで寄り添う二人にも、そのメッセージは象徴されているように思う。

主演の一人の森口彩乃がめっちゃ正統派清楚系美女のビジュアルでとことん脱ぎまくるのがいっそ清々しく、AV女優という題材に向き合ったときに「じゃあ自分も脱がなきゃわからなくない?」的なプロ根性が垣間見えて凄まじい。佐々木心音がとても生々しくエロく、しかしどこか紗倉まなを思わせる風貌で、エンドロールでの屋上から都会を見渡すシーンが力強くしなやかで爽やか。

そして森口彩乃の姉役の江口のりこ、顔が怖い。怪談とか語ってませんでしたっけ?

どうでもいいけど、高岡早紀のすれっからし女っぷりは、もうあらゆる一挙手一投足が実に高岡早紀でした。

「最低。」は現在アマプラで見れます。