怪盗シネマ

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「怪盗グルーの月泥棒」に登場する「悪党銀行」は現実にも存在する!?

映画「怪盗グルーの月泥棒」において、グルーをはじめとして世界中の悪党に資金を融資する「悪党銀行」。グルーはなんとか悪党銀行から「月泥棒」計画のための資金を調達しようとプレゼンに励んでいる。

この「悪党銀行」、入口の扉に「FORMERLY LEHMAN BROTHERS」(「元リーマンブラザーズ」くらいの意味)という文字が掲げられているというブラックな小ネタがある。

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経営破綻したあとのリーマンブラザーズが悪党銀行と化したのか、ビルが使われているだけなのかは微妙なところ。

ところで、犯罪者に犯罪のための資金を融資する銀行なんていうものが、はたして現実にもあるのだろうか?

ということで、ちょっと検索をかけてみる。

「銀行 犯罪 融資」「銀行 テロリスト」などのワードで検索してみるが、残念ながらというか、当然というか、犯罪者のための銀行があるなんていう情報はちょっとググったくらいじゃ教えてくれない。

しかしながら、銀行と悪党や犯罪は全くの無縁で、世の中の銀行はすべて正しいことにだけお金をだしているのかといえば、答えはたぶんノーだ。

銀行や金融の歴史を見てみれば、様々な国で銀行の不正や悪行が摘発されてきたことがわかる。特に銀行と絡めて語られるのが「資金洗浄(マネーロンダリング)」だ。「悪党銀行」のように直接犯罪者に犯罪のための資金を融資するというのとは違うが、不正な手段で得たお金を、その銀行を通して不正な内部処理をすることで出所や本来の持ち主を隠し、収益の発覚を防ぐ立派な犯罪である。麻薬密売、武器取引、詐欺などの様々な犯罪の収益が手を変え品を変え、今も「洗浄」されて世界を流通しているという。

ところが、もうマネロンどころじゃない、とんでもないスケールの犯罪に関わった「銀行」が一昔前まで普通に営業していたということを、20代くらいの人は知らない人も多いのではないだろうか。(かくいう筆者は30代だが全く知らなかった)

その銀行の名は「BCCI(バンク・オブ・クレジット・アンド・コマース・インターナショナル)」日本名「国際商業信用銀行」である。詐欺まがいの買収劇、粉飾決算、あげくの果てにはテロリストの武器取引への関与、各国情報機関への非合法活動への協力、自前の特殊部隊を抱え裏切者を抹殺、などなど不正と犯罪に邁進し、ついた二つ名が「犯罪銀行」

まさに現実の「悪党銀行」と言えるのはこのBCCIであろうと思う。以下では、かいつまんでこのBCCIが手を染めたという悪事を挙げてみる。この「BCCI事件」をざっと追うだけで、1980~90年代における世界の「裏事情」がほぼ全て概観できるのではないかと思うほど、実に多様な事件の裏に暗躍しているのがわかるだろう。それは「裏の世界史」とでもいうべき薄暗い世界の、嘘と裏切りの物語でもある。

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BCCIの設立

BCCIは、パキスタンのアガ・ハサン・アベディによって設立されたイスラム銀行である。その理念は「第三世界銀行」であり、二つの大戦が終わり東西冷戦の渦中にある欧米中心社会への挑戦であるかのような、世界唯一の「無国籍」銀行であった。

ロンドン、ケイマン諸島、ルクセンブルグを中心に、文字通り世界中に支店を広げたBCCIは、顧客の要望なら「なんでも」応える柔軟な対応で世界の預金者を取り込んでいった。

富裕層のみならず、貧しい人間、中小企業経営者の顧客にも柔軟で行き届いたサービスを提供したBCCIだったが、その柔軟性は世界の犯罪者達をも引き寄せた。BCCIは顧客がたとえ麻薬の密売人やテロリストであろうと、多くの預金と手数料を落としてくれさえすれば喜んで口座を提供し、さらには資金洗浄や資金輸送にも手を貸した。

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麻薬資金の洗浄

1980年、南米パナマに支店を開設したBCCIは、当時の独裁者マヌエル・ノリエガを顧客に迎え、ノリエガの手掛けた巨額の麻薬資金洗浄に便宜をはかった。ノリエガはコロンビアの麻薬組織メデジン・カルテルと手を組み、巨額の麻薬資金を動かしてその分け前にあずかっていた。現地のBCCI支店長アワンは「資金源は問わない」と言い、ノリエガのお抱え銀行家としてノリエガの資金洗浄に大いに貢献したらしい。

この巨大資金洗浄ルートは、米関税局によるCチェイス作戦での潜入捜査によって明るみになり、この時にBCCI関係者も告発されている。

テロリストの武器取引の仲介

顧客が何者であるかを問わないBCCIは、テロリストや闇の組織の取引利用の格好の的だった。イスラエルの情報機関モサド、国際テロリストアブ・ニダル、ヒズボラなど、

表立って資金調達や取引ができない組織がこぞってBCCIを利用した。口座を用意し、取引の場を提供し、時には仲介役を引き受けた。

アブ・ニダルをはじめ、様々な紛争地域と勢力に武器を提供した武器商人ナジュメディンもBCCIの上客だった。彼はBCCIを中心にして世界中と武器取引を行ったが、法律上の障壁などに当たるとBCCIが法の隙間や口実を見つけてルートを提供するといった様子だったらしい。

自身の内部を通る汚れた資金を洗浄するためのルートが複雑になればなるほど、多くの手数料をとれるために大歓迎であったという。

CIAにも協力

これほどの非合法組織との深い関わりが早い段階でひそかに取り沙汰されていながら、BCCIが長い間摘発もされず営業を続けてこられた理由として、米国CIAや政府上層部との関係も噂されていた。

冷戦当時、中東におけるソ連のアフガン侵攻を阻止するため、CIAは若き日のビンラディンも身をおいた武装組織ムジャヒディンに密かに武器供与を行っていた。その売却資金が、南米ニカラグアの反政府組織「コントラ」に流入したとされるスキャンダルが、いわゆる「イランゲート事件」だが、その資金ルートこそBCCIであったという。

湾岸戦争においても中東諸国の武器調達に少なからぬ役割を果たしたとされ、世界各国の情報機関も密かに利用していたとされる。

BCCIの終焉

世界各国で巨額の裏資金を動かし、巨利を貪っているかに思えたBCCIだったが、その内実は目を疑うような自転車操業だった。スタッフによる不正、無茶な貸し付けによる貸倒れなどで経営状態は穴だらけになっており、その穴を隠すために粉飾決算を行い、さらに穴が大きくなるという悲惨なループにはまっていた。その穴を埋めるために流用されていたのは株主の投資資金と、罪もない多くの顧客の預金である。

1991年、とうとう重い腰をあげたイングランド銀行がBCCIの営業停止処分を発表し、アメリカが一連の不正を告発したとき、もっとも多くを失ったのはBCCIを信用し全財産を預けていた預金者たちだった。

 

このように多くの不正や犯罪に利用され、また自ら関わってきたBCCIだったが、なぜそれほど犯罪者たちに重宝されたのだろうか。

その秘密は、BCCIが世界でも唯一の「無国籍」銀行であり、世界のどの規制当局にも担当されず、例えばある国の法に引っかかったとしても、ひっかからない別の国の支店を経由して資金を送るなど、独自の世界的ネットワークを構築したことにある。

いまやお金は世界をめぐるが、そのお金に関する法律は各国がバラバラに定めている。その間隙を縫って世界を自由に動かす仕組みを作った最初の銀行こそBCCIであり、世界はここからグローバル化社会におけるお金に関する多くの教訓を得たのである。

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ということで、

「怪盗グルー」に登場する「悪党銀行」は現実に存在するか?

という問いに対する回答は、

「少なくとも一昔前には存在した!」

という答えとなる。

現代にもこのような大規模の不正ネットワークが存在するのか、それを突き止めようとすると、BCCIを追ったジャーナリストたちのように、ある日突然謎の死をとげそうなので、ここではやめておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「怪盗グルー」「ミニオンズ」ミニオン達のモチーフとして見え隠れするユダヤ教の諸要素

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「『怪盗グルー』シリーズの人気キャラクター「ミニオン」のモデルは、実はナチスドイツに収監され人体実験の犠牲となったユダヤ人の子供たちである。」

2015年くらいに、こんな噂がネット上でまことしやかに囁かれた。

根拠として、ミニオンそっくりの帽子を被せられた子供たちの古い写真、ミニオンの話す言葉が意味不明なのはユダヤ人の子供たちがヘブライ語を話す様子と同じ、などが挙げられた。

https://matome.naver.jp/odai/2144150341821614001

この噂について、写真で子供たちが被っているのはナチスと何の関係もない潜水スーツであるということも判明し、結局のところデマであることがわかっている。

噂はすべてデマだったのか?

しかしながら、このデマが何の根も葉もない、真実をかすりもしない与太話だったのかというと、実は根本のところでいいところをついている噂だったのではないかと筆者は思っている。

「ミニオンがユダヤ人と関係がある」という部分だ。

 

「ミニオン」という言葉を辞書で調べれば、「お気に入り、寵臣、子分」とある。

日本のゲームでも、使い魔的な存在に「ミニオン」と名付けられることがあるので、言葉自体は聞いたことがある人も多いだろう。

ところでこの「ミニオン」という言葉、実はユダヤ教と深い関わりがある。

ユダヤ教の宗教的儀式に従事する係のことを「ミニオン」と呼ぶのだ。

「ミニオン」という言葉がユダヤ教由来の言葉なのかまではわからなかったが、「怪盗グルー」シリーズのミニオン達と「ユダヤ教」を重ね合わせてみると、あらためて気づくことが多い。

「最強のボスを求めて世界を彷徨う」というミニオン達の性質は、歴史を通して安住の地を探し求めるユダヤの人々とどこか重ならないだろうか。

ミニオンと72柱の悪魔

ミニオンにはユダヤの人々そのものもモチーフとされている可能性があるが、さらに見ていくともうひとつ、ユダヤ教と関わるモチーフが見えてくる。

映画「ミニオンズ」冒頭では、ミニオン達が生命誕生と同時代から存在し、いかにボスを求めてさまよってきたかが描かれるのだが、ここで筆者が気になった描写として、ミニオンが人類に「技術」を教えているような描写がある。

黎明期の人類にハエタタキのような道具を与えたり、ピラミッドの設計を担当したりといった描写である。

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(C)2014 Universal Pictures.

ちなみに、この一連の描写でミニオンがボスとあおいだ存在たちは、ミニオンの悪意のないいたずらやミスによってことごとく滅んでしまう。

ところで、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」には、かの有名なソロモン王の逸話が記述されている。

ソロモンに仕えたという「72柱の悪魔」もその中の一つだ。

そしてその悪魔たちの中には「人間に知恵を与える」というものもいる。

仕える主人に技術や知恵を与え、そして亡ぼしてしまうミニオンの性質は、こういった伝説上の悪魔に似ているようにも思える。

ミニオンとバベルの塔

さらにもう一つ。

ミニオンが話す、通称「バナナ語」。

日本語、フィンランド語、韓国語、スペイン語など多数の言語がごちゃまぜになって口にされるこの言語だが、「旧約聖書」と合わせて考えることで見えてくるものがないだろうか。

そう、「バベルの塔」の逸話である。

「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。— 「創世記」11章1-9節

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%99%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A1%94

人類はもともとはたった一つの言語を話していたが、神によって互いが理解できないよう今のように言語をバラバラにされた、という伝説である。

この伝説を裏付けるかのように、様々な言語は太古の一つの言語に起源を求めることができる、という学説もあるという。

「怪盗グルー」の世界において、この「たった一つの言語」こそ「バナナ語」だったのではないだろうか!

ここで重要な点は、「ミニオンズ」冒頭でミニオン達は人類発祥以前から言葉を使っている点だ。

ボスを求めてあらゆる土地を、あらゆる時代を生きてきたミニオン達が、その土地土地の人々になんとなく言語を伝えた結果、人類が言葉を得、長い時間を経ても「バナナ語」の名残が各国語に残っているとしたら。

「バナナ語」は各国様々の言語のミックスに聞こえるが、実は全く逆で、各国の言葉がバナナ語から派生したものだったのだ。

太古、バベルの塔を建てて神に近づかんとした、傲岸たる「最強のボス」の足元にミニオンたちがわいわい群れていたとしても、驚くには値しないだろう。

 

というように、ミニオンという可愛くも不可思議でシュールな不老不死生物を見ていると、しかも公式で人類史と絡めて語られてしまうと、しょうもない想像の翼がばっさばっさと勝手に羽ばたきだして止まらなくなってしまったので、ここに書き留めておく次第。

しかし可愛いなこいつら。

 

 

 

 

 

 

 

「アベンジャーズ/エンドゲーム」は悲劇だったのか?

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出遅れましたが観てきました、「アベンジャーズ/エンドゲーム」。

観た人たちみんなが口にするように、この作品には史上最大のクロスオーバープロジェクトとなったシリーズ全体を振り返り、懐古と感謝を捧げるような物語となっている。

あくまで架空のキャラクターであるヒーロー達だが、現実時間でも10年を走り続けた彼らに感謝し、贈り物を用意し、製作者と観客が一緒になって彼らを寿ぐ。「フィクションを尊ぶ」とはこういうことなんだと、観ながら涙ぐんでしまった。

これにて初期メンバーによる10年間の「アベンジャーズ」には一区切りがつけられたと考えていいだろう。

しかしながら、本作の物語自体は、「ヒーロー総出演お祭り映画」と一言で片づけることが憚られるような深刻なテーマ性を感じた。

以下でその深刻さが何であるのか、書きながら自分自身の考えをまとめてみたいが、多分にネタバレを含む内容にならざるを得ないので、未見の方はご注意を。

 

・お祭り騒ぎの裏に隠された悲劇性

やはりこの物語は「悲劇」だった、と思う。

前情報などで、前作で失われた全宇宙の半分の生命を取り戻す手段としてタイムトラベルを持ち出してくると予想できた時、ラストで取り戻す前提での死人大量生産だったんだな、とごく自然に飲み込んだわけだが、その予想は大方間違っていなかったにもかかわらず、本作のラストは大団円とは程遠い終幕となった。

もちろん、ロバート・ダウニー・Jrはじめ、主要キャストのシリーズからの卒業という制作事情的側面があることは百も承知で、しかしやはりアイアンマンの「戦死」は、そしてブラックウィドウの「自殺」は、「尊い犠牲」の一言で片づけられる類の死であったろうか。

本作の物語は、「タイムトラベル」「死んだ命を取り戻す」という、フィクションにおいて非常にデリケートな扱いを要する要素を二重にとりこんだものとなっている。

多くの登場人物たちが前作の指パッチンで身近な人間を失うことになり、取り戻せるのならばなんでもする、という覚悟でいる。ただ一人、トニー・スタークを除いては。トニーは幸いにも妻を失わずに済み、その後最愛の娘までももうけて平和な暮らしを営んでおり、危険を犯してまでもタイムトラベルを強行する必要性の薄い人間のひとりだった。しかしトニーは、方法を思いついてしまったがために、そして自分がアイアンマンであるがゆえにこそ、危険な賭けに等しい「タイム泥棒」計画に身を投じ、結果としては再び繰り返されそうになったサノスの指パッチンを防ぎ、身を亡ぼすことになった。

また、6つの石のひとつ「ソウルストーン」を得るために、ブラックウィドウもまた自ら死を選ぶことになった。

災厄による多くの死を「なかったことにする」ための計画が、気づけば災厄を生き延びた人々を死に至らしめている。

「特定の命を救うために、別の命が失われる」

この事態はまさに敵であるサノスが選んだ「宇宙の半数の生命を救うため、半数の生命を切り捨てる」という方法論と、本質的には全く同様なのだ。

もちろんそこで失われる命と救われる命の「数」は天と地ほども違う。しかし、この「数」の論理こそサノスの論理。敵と全く同様の論理によって失われる生命の「数」だけを操作する結果となってしまったというのが、今作「エンドゲーム」の結末なのだ。

もちろん、サノスによって強制的に理不尽に殺されるのか、死に場所や時を選んでの戦死かという違いはあるし、ことアメリカという戦争が身近な国では死に方の違いは日本以上に大きな問題となるだろう。

しかし、物語ラストで自分の人生を全うし、「美しかった」と評したキャプテンと、他人を助けるために最愛の家族を残して死なざるを得なかったトニー・スタークの姿はあまりに対照的。

「タイムトラベル」という「禁じ手」を使ってまで、理不尽な死を「なかったこと」にしようとしても、そのために新たな犠牲が出てしまう。

結局のところ、死者の列が短くなり、死者の名簿の名前が入れ替わっただけではないのか?

それとも、「本来死ななくてもよかった」アイアンマンやブラックウィドウ、最終決戦での無名の兵士たちの死には、サノスの指パッチンによる死にはない「意味」があったのか?

というあたりが、今作「エンドゲーム」を見て感じた悲劇性であり、そして今作をただのお祭り映画というだけでなく、個々人の死生観にまで思いを至らせるすぐれた脚本であるとも感じた。

「ヒーロー総出演お祭り映画」に「タイムトラベル」が出てくれば、これはもうナンデモアリの細かいことはどうでもいいんだよ!的大活劇が期待されようものを、終わってみれば結局我々は何かを失っており、だからこそこのシリーズはまだ続いていくのだ、という決意をも、終劇後の余韻の中で感じることができたのかもしれない。

 

 

放置地雷発覚系イヤホラー「ヘレディタリー/継承」

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ミスった事案を放置して特大地雷と化し、周囲が騒ぎ出して超気まずくなること、ありますよね。

 

2018年ナンバー1に挙げる人が多いのもわかる傑作ホラーだった。

怪奇現象そのもので引っ張るのではなく、そのちょっと手前、何かが起こる予感、予兆が画面全体を覆いつくし、息がつまりそうな窮屈さを観客にも強いる。

幽霊や怪奇現象はそれが見えてしまう一歩手前、いかにも出そうな雰囲気こそ最も恐怖を煽る。そのことをとてもよくわかっている監督で、実は劇中で明らかな超常現象は数えるほどもないのだが、この作品においては現象がホンモノかヤラセかにはもはや意味がなく、その場、その状況そのものがひたすらに「イヤ」なのだ。

長兄ピーターが「やらかす」例のシーン、程度は違えど人間誰もが一度は想像するであろう「人生最悪の事故」が実際に起き、そして現実逃避に走り、母の慟哭とともに現実であることを突きつけられるまでのリアルで執拗な描写。一瞬の、しかし絶対に取返しのつかない事件をきっかけに破滅へと転がりだす家族の、虚しさと閉塞感。

この映画において、スプラッター描写や超常現象的な部分はスパイスにすぎない。どんな個人も、どんな家族も陥りうる日常の落とし穴。そこに不可解で理不尽な人間の悪意をにおわせるだけで、幽霊に頼らずとも極上の恐怖が醸成されるということを、この監督はちゃんと知っていた。

ラストには一連の出来事がとある目的に向かう陰謀であったことが示唆されるが、そこの部分を抜いたとしてもこの映画の本質的な怖さが損なわれることはないはず。むしろ悪魔うんぬんの部分は物語に因果的な整合性を求めて安心したい観客への慰めですらあるかのようである。

とにかく顔ですよ。

人間は顔でこんなにも恐怖を表現できるのだ、と言わんばかりの母親役トニ・コレットの顔芸!ただ普通にしているだけで画面そのものが歪んでいるかのように錯覚させるチャーリー役ミリー・シャピロの顔!ムロツヨシにしか見えなくともしっかりノーフューチャーな感じ出てるピーター役アレックス・ウルフのイスラム過激派ぽい顔!

とにかく閉塞感しかない箱庭的世界で家族が嫌な目にあっていくだけの映画なので、見ているこちらもひたすらへこむしかない、そんなホラーとしてひたすらに正しい傑作。

悪趣味一歩踏み込み気味なので、万人にはオススメいたしかねるし見るタイミングも選ぶけど、未だホラー映画に本気で怖がることができる、というのは嬉しくもあり。

監督アリ・アスターはこれが処女作。次作は北欧民族系ホラーが待機中とのことで、こちらも楽しみだなあ。

 

 

「アントマン」

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「アントマン」Ant-Man

2015年、アメリカ。

ペイトン・リード監督、ポール・ラッド、エヴァンジェリン・リリー、マイケル・ペーニャ、マイケル・ダグラス、コリー・ストール他。

人間はデカいものが好きだ。それはもしかしたらどこまでも小さくなりたいという願望の裏返しなのかもしれない。映画館に行くという行為そのものが、ある意味では自分を矮小化し、デカい画面に、デカい世界に圧倒されにいくという意味を含んでいるのかもしれない。ローランド・エメリッヒなんかは「話なんかどうでもいいからとにかくデカいものを画面に現出せしめたい」という単純にして最強の欲望の持ち主だし、スピルバーグも特撮系においてはそのケがある。デカいというのはそれだけでひとつの正義なのだ。そしてそれは別に「でかく見える」というだけでも全く構わない。

というわけで、小さくなった人間の視点から世界を見る、というコンセプトだけですでに画面が面白くなることは、忠犬が死ぬだけで泣ける映画と化すのと同様に自明であると、すでに「ミクロキッズ」などの偉大な先達が証明している。

鑑賞後にアリが愛おしくてうっかり踏みつぶすこともできなくなるのもミクロキッズと同様で、どうも小さくなった人間はアリと仲良くなるという不思議なコードがあるらしい。

もっとも「ミクロの決死圏」や「ミクロキッズ」と違って、こちらはミクロの世界への好奇心や冒険というよりは、あくまでアクションのギミックとして使用されている感は強い。お話としては全体的に軽妙なスパイ大作戦といった趣で、一応世界の命運をかけた作戦を描いているにしてはいちいちエピソードがミニマムなのももちろんわざとだろう。

主人公からして世界を相手どる以前にまず父親としての自分を取り戻すために戦うし、全体的に親子関係のもつれが目立っていてあまり危機の緊張感はない。

主人公スコット・ラングのキャラクターは、色々拗らせがちなアベンジャーズの中では例外的といっていいほどさっぱりしてバランスがとれた大人といってよく、頭の回転の速さもあって見ていて疲れないのがいい。

ホープ役のエヴァンジェリン・リリーは「ホビット」シリーズでエルフやっていた人ですね。とにかく顔の作りが派手な方。それにしても首から肩にかけての筋肉の付き方よ。今作の役どころではそこまでの肉体改造は求められてなさそうだけど、もしかして当初はワスプも1作目から登場予定だったとか?

自分はコメディタッチな映画をつい避けてしまうというあまり得をしないクセがあるので、アントマンを見るのもだいぶ後手にまわったが、思った以上の楽しさだったので、すぐ「アントマン&ワスプ」も見てみよう。

「インフィニティウォー」を受けての「エンドゲーム」でキーとなりそうなキャラクターだが、このどこまでもミニマムで所帯じみたおっさんが宇宙レベルの危機を救うのは愉しみだ。

 

「新感染 ファイナルエクスプレス」

(C) 2016 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & REDPETER FILM. All Rights Reserved.

ヨン・サンホ監督、コン・ユ、マ・ドンソク、キム・ウィソン他。

ゾンビ映画の「お約束」は、ちゃんと丁寧に使えば物語の完成度にしっかり貢献してくれるということを思い出させてくれるような脚本の完成度。とにかく基本に忠実に、ジャンルに淫することなく真っ向からゾンビ映画を撮っている。「シンゴジラ」に例える人がいるのもわかる。ジャンルと化した映画を、その基礎の基礎から考え直し、根源的な面白さを追及すると、「内輪受け」からは大きく脱却できるという見本になりうる映画。

いやまあ、一般受けするのが正解であるとも思わないのだが、やはり真っ当によくできてる映画は誉めるべきだと思うので。特に監督の個性が大爆発するような作劇でもなく、本当に教科書的な、いっそ凡庸とも言えるドラマなんだけど、そもそも「ゾンビ映画」というジャンルのポテンシャルがあれば人間ドラマは最低限でよく、それをよくわかって必死で抑制しているようにも見える。結果、ゾンビ映画ファンからも好評なところを見れば、この映画が本質的なところを外していないことがわかる。

 個人的に一番好きだったのは、本格的なゾンビの登場する前の場面。暴動のニュース、通行止め、遠くに見えるビル火災。日常生活の中に少しずつ兆してくる異変というのがとにかく好きで、生々しければ生々しいほどいいので、このあたりの入り方はとても好き。「ラストオブアス」の冒頭が好きな人はわかってくれるはず。ワクワクするんですよ。

あとゾンビ。あまり多くのゾンビ映画を見てきたわけではないけれど、走るゾンビは今や珍しくないというのはなんとなくわかる。しかし今作のゾンビは体制とか関節とか全く気にしない癖に猛烈に走る結果、ほとんど流体のような現象に見えるのが面白い。いくつかのシーンなんか本当に人体でできた津波にしか見えない。そういう意味でも、ホラーでもあるんだけど、ディザスタームービーの趣きがより強いのかなと思う。

過激なスプラッタ描写もほぼないので、面白い映画教えろって言われたらとりあえず名前を出せる貴重な(?)作品かと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「gifted/ギフテッド」少女の未来をめぐる答えのない争い

「gifted/ギフテッド」(「gifted」)、2017年、アメリカ。

マーク・ウェブ監督。

クリス・エヴァンス、マッケナ・グレイス、リンゼイ・ダンカン他。

数学の才能に恵まれるも自殺した母親を持ち、自身も数学の圧倒的な才能(ギフテッド)を持つ7歳の少女メアリーと、親代わりとなって少女を育てる叔父フランクの生活を描く。「アメイジング・スパイダーマン」シリーズのマーク・ウェブ監督。「キャプテン・アメリカ」のクリス・エヴァンス主演。マッケナ・グレイスのませた天才っぽさと年齢相応の無邪気さを同居させた演技が素晴らしい。あと睫毛がめっちゃ長い。片目猫のフレッドが可愛い(脚本家の猫らしい)。

メアリーにとって最も「利益」になる生活とは何かをめぐり、叔父フランクと祖母エヴリンが対立する。フランクは亡き姉の意志をくんでメアリーを才能に関係なく「普通」に暮らさせることを選び、祖母エヴリンは母親と同様にその才能を最大限に伸ばすべきと考える。

ここで投げかけられる問いは、大人は本当に子どものこと「だけ」を考えて子供の生活を考えているのだろうか、という問いだ。祖母エヴリンは「優れた才能は人類の宝であり、貴重な資源であり、親子の関係を越えて責任を持つ」という信念をもって娘ダイアンに英才教育を施した。その結果としてダイアンは恋人や普通の生活を失い、あげく自殺に至った。メアリーに母親と同じ才能があると知ったエヴリンは、やはり同じように英才教育を与えることが義務だと考える。しかしエヴリンは自身が数学研究者を目指しながら挫折して結婚生活を送った過去もあり、その夢を娘や孫に託そうとしている節もある。彼女の場合、「人類への責任」という厳格な信念と「自分自身のエゴを満たす」というおそらく無意識の目的が混じりあってしまっている。

この映画の「大人」なところだが、そんなエヴリンが息子をだまし討ちのようにしてでもメアリーを奪いとろうとし、逆にフランクによって知らされたダイアンに関する衝撃の事実に打ちのめされてもなお、エヴリンのすべてを否定することはなく、誰も憎みあわないラストを用意している。メアリーにとって本当に大事な生活とは何なのか、という正解の無い問いに、それでも少しずつ答えを探っていくというラストになっている。

決して派手さはないし、シナリオも収まるべきところに収まる予定調和的な物語ではあるが、扱うテーマは普遍的で、特に小さな子供の育児中の人々には刺さる映画なのでは。フランクの、決して甘やかしすぎはしないが、メアリーにしっかり向き合い、元哲学者らしく一つ一つの問いに逃げることなく答えていく姿勢はひとつの理想の親の姿なのでは。こういう親はかっこいい。

ところで、この映画に出てくる「ミレニアム懸賞問題」、有名な話なので知っている人は知っているだろうが、劇中で大学(?)の柱に7つの問題が飾られ、「ポアンカレ予想」だけに解答者の写真が貼られているセットは、「人類がようやく1人だけ倒せた7大ボス」感が凄くて大変萌えた。ああいうの好きです。

ちなみに7つのミレニアム懸賞問題とは、

「ヤンーミルズ方程式と質量ギャップ問題」

「リーマン予想」

「P≠NP予想」

「ナビエーストークス方程式の解の存在と滑らかさ」

「ホッジ予想」

「ポアンカレ予想」(解決済み)

「バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想」

の7つとのこと。劇中でダイアンが解こうとしていたのは「ナビエーストークス方程式の解の存在と滑らかさ」。SFか哲学書のタイトルみたいだ。「滑らかさ」なんて感覚的な言葉が数学の命題になるというのが不思議。