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【ネタバレ感想】ゲーム『The Last of Us part Ⅱ』〇〇〇編はなぜ必要だったか?

『The Last of Us part Ⅱ』(2020年、アメリカ) 

以下、ネタバレ厳禁とされている本作をネタバレ全開で語ります。プレイを終えた方に向けた記事ですので、プレイ中の方、プレイ予定の方は引き返していただいたほうが無難です。↓画像下からはじめます。

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引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#about

賛否両論である。

それも無理からぬこととは思う。誰だって気持ちよく撃って倒した相手の名前を知りたくはないし、ましてそいつの友達や趣味やどんな冗談を言うかなんて知りたくはない。自分があっさり殺した犬がいかに賢く愛らしかったか、なんて知りたくない。このゲームはプレイヤーにゲーム内での「所業」を突きつける。ゲームであるということがここまで暴力的な機能を果たす作品がかつてあっただろうか。このゲームを前に反発するなというのは、ちょっと難しい相談ではないかとすら思う。極端な言い方をすれば、このゲームは敵を倒せば倒すほど、物語上の仕掛けによって自身が「罰される」ゲームなのである。気持ちよくゲームしたいだけのプレイヤーほど相性が悪い。かといって戦闘は極上に面白い。面白ければ面白いほど、自分の業を突きつけられる気分になる。こういった点が、ただ不条理な現実を忘れて前作のようなエリーとジョエルの絆の物語に浸りたかっただけ、というユーザーから煙たがられているようだ。

しかしながら、超傑作である。プレイヤーがどんなに重苦しい気持ちになろうと、その気持ちが重いものであるほど、それはこのゲームが傑作である証明なのだ。好き嫌いで言えば嫌いなほうだが、それはこの作品のクオリティを否定するものでは全くありえない。

語るテーマはいくらでも掘り出せそうな作品ではあるが、この記事では主に物語について、特に多くのレビューが述べている「アビー編はいらなかった」という感想について、反論というか、自分の考察のようなものを書いてみたいと思う。

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引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#lg=1&slide=52

・なぜアビー編が必要だったのか?

結論から言えば、アビーはジョエルだからである。アビー編をプレイしていて、薄々感じた方も多いのではないだろうか。大切な家族を失い、失意から個人的な幸福より危険な任務や復讐を優先してきた来歴も似ているし、行きがかりから助けたレブを連れての旅路はそのまま前作のジョエルとエリーを彷彿とさせる。結果的にアビーはレブを助けるために仲間であるWLFを裏切るが、これも前作のラストでエリーを助けるためにファイアフライを多数殺したジョエルの姿と重なる。そもそもアビー編のプレイ感もジョエルのようなパワータイプのものであり、アビーはかなり意識してジョエルに寄せられたキャラクターだと感じている。

もちろんそれを知っているのはプレイヤーである我々だけであり、エリーにはそんなことを知る機会は最後まで訪れない。しかし構図として、エリーが追っていたのはジョエルであったとも言える。この物語はある意味では徹頭徹尾「エリーとジョエルの物語」でしかなく、その意味で間違いなく『The Last of Us』なのだ。

ここでエリーにとってジョエルがどのような存在であったかを考えよう。もちろんまず父親的な存在であっただろう。命の恩人でもあり、前作の長い旅路で心を通わせた親友でもある。一方で、今作において最も重いのが、ジョエルがエリーの免疫からワクチンを作ることを阻止したという事実だ。前作ラストにおいて、エリーからワクチンを作るにはエリーを死なさなければならないと知り、ジョエルは世界よりもエリーを選び、医師を含む多数の人間を殺してエリーを病院から奪い去った。今作ラスト付近で、この事件へのエリーの率直な気持ちが語られることになる。

「生きてたって証を残せたかもしれないのに、それを奪ったんだよ」

これが、ジョエルが世界と引き換えにエリーを選んだことに対する、エリーの気持ちだった。「生きた証」。犯罪を抑止する法律も警察もなく、荒廃し、危険が闊歩し、いつ死ぬともわからない日常で、人が「生きた証」を残すとはどういうことか。ここでのエリーの憤りは、決して「世界のために」とか「自分が犠牲に」といった綺麗ごとによるものではない。利己的なまでの自身の存在意義への欲求だ(エリーは同性愛者であり、愛する人と直接子供をもうけることもかなわない)。おそらくこの荒廃した世界では誰もがこういった「夢」を密かに抱き、しかし多くの場合それは叶えられず、犬死に近い最後を迎えていくのだろう。WLFの掛け声「生き抜く力を」「そして安らかな死を」という言葉には、この世界に生きる誰もに響く切実な祈りが込められているはずだ。そんな世界での価値観において最上に近い最期を迎える機会をジョエルは奪ってしまった。そして自分の命と引き換えに荒廃しつづけなければならない世界を背負わされてしまった。

エリーにとって、ジョエルは父であり、父とは多くがそうであるように、自身に重すぎる世界を背負わせた張本人だった。エリーはジョエルを憎んだ。それはジョエルへの愛情と矛盾しながらも両立してしまう感情だ。

「このことは一生許せないと思う。」「でも、許したいとは思ってる。」

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引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#lg=1&slide=20

しかし、そういった屈託を抱えながら、それでもジョエルと共に生きていくことを表明した翌日、ジョエルはアビーに殺されてしまう。自身の憎悪と愛情の、これからの人生の指針を奪われたエリーは、アビーへの復讐を誓い追跡を開始する。エリーにとって今作の旅は失われたジョエルを追う旅であり、アビーへの憎悪は激しくはあるが本質ではない。決着をつけたいのは本当はアビーではなく、自身の中のジョエルである。おそらく最後の最後で、エリーはレブを必死で守ろうとするアビーとジョエルを重ね、そのことを悟った。「もう一度チャンスが与えられても、同じことをするだろう」というジョエルと、今目の前で子供を守ろうとするアビー。この瞬間のためだけに、アビー編はあったと言ってもいい。アビー編がなければ、ここでエリーが彼女らを逃がす意味がわからなくなってしまう。エリーは最後の夜にジョエルに告げた「許したいとは思っている」という自身の言葉によって、「ジョエルを殺す」ことだけは避けることができたのだろう。

全てを終え、帰宅したエリーを待つものは何もなかった。愛しい恋人も、可愛い赤ん坊も。アビーとの闘いで指を失い、ジョエルからもらったギターを満足に弾くこともできなくなった。ギターを窓辺に立てかけたエリーは、訣別するように歩き去る。エンドロールでは、ぎこちなくエリーとジョエルが声を合わせている。エリーはある意味で、ジョエルを本当に失うことで歩みだすことができ、許すことができたのではないか。復讐はあらゆるものを奪い、何も残さないからこそ。