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日本でアベンジャーズは可能か?日本のクロスオーバー文化を見る

レンタルが始まった「アベンジャーズ/インフィニティウォー」を見て、やっぱり「アイツも出る!こいつもいる!」というオールスター感はたまらなく楽しいと思いまして。

 

で、やはり考えてしまうのが、「日本でアベンジャーズのような映画は作れないのか?」ということ。

「アベンジャーズのような」とはどういうことか?

・各々が独立した作品でそれなりの人気と知名度を持ったキャラクターがクロスオーバー

・物語にがっつり絡み、他のキャラクターとがっつり共演

・個々の関係性の物語が全体としての大きな結末へ向けて進んでいく

というのがおおよその要素かなと思っています。

 

というわけで、現状の日本のクロスオーバー文化を知る限りで挙げていきつつ、上記のような作品が日本で生まれる可能性を探ってみたいと思います。

 

ジャンプオールスターは映像化可能?

まずは週刊少年ジャンプ。

映画「アベンジャーズ」はマーベルコミックのキャラクター達の実写化及びクロスオーバー作品なのだから、日本版アベンジャーズといえばやはりジャンプヒーローのオールスターを真っ先に夢想しますね。

しかしマーベル作品とジャンプ作品の大きな違いは、マーベル作品が「同じ世界を共有している」のに対し、ジャンプ作品は個々に独自の世界設定を持っている点です。

アイアンマンとスパイダーマンがすぐ隣に住んでいるような距離感なのに、悟空とルフィは次元を超えてようやく会える。

やはり彼らを「同じストーリー上で」共演させるのにはこの点がネックになるでしょう。

 

実はジャンプオールスター的な企画はゲームではかなり展開しており、古くは「ファミコンジャンプ」、最近では「ジャンプフォース」が開発中です。

しかし、漫画なりアニメなり、しっかりストーリーを作り込んだ物語での共演は、今のところ難しそうです。

(「ジャンプフォース」は異世界に飛ばされたヒーロー達の物語らしいので、物語も期待できるかもしれません)

 

日本のゲームにおけるクロスオーバー事情

ゲームでのクロスオーバーでいえば日本は海外に比べ圧倒的に進んでいます。

今日本で知名度的にも最も大きなクロスオーバー作品といえば「スパロボ」と「スマブラ」でしょう。

 

「スパロボ」は、メカモノであるならばほぼ全ての作品を物語に取り込むことができる異常な懐の深さを持っています。

物語としても、各作品のキャラクターと設定が絡み合い一つの大きな結末へ向かうというものです。

先に挙げた「アベンジャーズ」の条件を現在最も満たしているのは、実はこの「スパロボ」シリーズと言えるかもしれません。

ただやはりゲームだから出来ているという側面はあるだろうし、これをそのままアニメとして作ることができるかというと難しいのでしょう。

 

「スマブラ」もやはり日本が世界に誇る大型クロスオーバータイトルで、今や任天堂どころかゲーム業界のオールスター出演といった感もありますが、「物語」ではありませんので、「アベンジャーズのような」という定義からは外れますね。

もちろん参戦キャラ発表時のファンの熱狂は大好きですが(笑)

ゲームは大好きですし、これらの作品を全く否定するものではないのですが、やはりテキストではなく、肉声で、バリバリ動きながら台詞が絡み合うクロスオーバーを見たいというのが正直な欲望です。

 

日本のヒーローは世知辛い?

では日本が誇る正義のヒーロー、仮面ライダーやウルトラマンではどうか?

どうか?というか、もう散々やってますね。

日本版アベンジャーズに最も近いのはこれらの作品群でしょう。

毎年夏には各ライダーがクロスオーバーする劇場版が公開され、近年は戦隊まで取り込んでの一大ヒーロープロジェクトとなっています。

ウルトラマンは、世界観を共有しつつ個々の作品が作られていった、ある意味で最もマーベルコミックに近い成り立ちのタイトルでもあります。

 

実は日本ではすでに日本版アベンジャーズがいくつも公開されていた、という結論になりそうですが、今ひとつ納得いかないのはなぜでしょう。

日本の特撮界が素晴らしい仕事をコンスタントに送り出している人材の宝庫であることを承知の上で言ってしまうと。

やはり、規模が。

僕は特撮マニアというわけではないので詳しくは知りませんが、どうやら予算が相当カツカツのようで、どうしても今のライダーやウルトラマン映画は、ハリウッドや日本の「大作」に比べれば「大作」とは言えません。

(出来のよしあしとはまた別の問題です)

 

アベンジャーズがアベンジャーズたる所以の最後の条件として、やはり「超大作であること」があると思うんですね。

他の映画と同じ1800円で、その映像が観れるというこの上ない贅沢感。

これは、映画の良し悪しとは別ベクトルの贅沢感です。

 

同規模とは言わない、せめて「いぬやしき」や「るろうに剣心」レベルの制作費で平成オールライダーとかやってくれたら、それこそ日本のアベンジャーズになり得ると思うのですが、どうなんでしょうか。

スーツだけでなく中の人をオリジナルキャストで集結出来ればかなり豪華感が出ることはこの間の劇場版でわかりましたし、もし歴代平成ライダー中の人全員集合できたら、もうアベンジャーズとかどうでもいいレベルで興奮すると思うんですが……。

 

そういえば「HiGH&LOW」劇場版を見ていた時、平成ライダーに予算をブッ込んだらこんな感じになるかもなーとぼんやり思っておりました。

源治とか完全に怪人でしたね。

 

オールスターに向かない戦争もの

世界観を共有しつつ、違うクリエイターが個々の作品を作り続けているコンテンツには、例えばガンダムの宇宙世紀ものがあります。

1年戦争を舞台にした物語はそれこそ無数に作られ、いわゆる正史のキャラがカメオ出演するようなクロスオーバーは随所で見られますが、アベンジャーズ的なオールスター感とは相性が悪いでしょう。(やはりその辺の欲望はGジェネやスパロボなどのゲーム作品がカバーしています。)

 

期待の新ユニバース「Fate」

もう一つ、いわゆるシェアードワールドの手法でコンテンツを拡大している作品が「Fate」シリーズです。

近年はFGOがすっかりメジャーなゲームとなりましたが、そもそもの原作の奈須きのこ「Fate/Stay night」の他、虚淵玄作による前日譚「Fate/ZERO」や三田誠「ロードエルメロイ2世の事件簿」などなど、複数のクリエイターが同じ世界観を共有しつつ独自の作品を発表しています。

これらはもともと同人作品であったこともあるのでスピンオフの要素が強いが、「Fate/Apocrypha」や「Fate/EXTRA」ではパラレルワールドが舞台になるなど、独自の展開を見せる作品もあります。

さらに言えば、「Fate」世界は奈須きのこによる「月姫」や「空の境界」とも世界観を共有しており、これら関連作品のキャラクターが一堂に会すれば、相当のオールスター感が出るのではと期待してしまいます。

(「カーニバルファンタズム」がありますが、ガチアクションも見たい!)

FGOはオールスター感がありますが、やはり映像作品でのクロスオーバーを見てみたいですね。

このシリーズの場合、映像化の前にまずそういった小説なりテキストが生み出される必要があると思いますが。

「様々な英雄を一堂に集めて戦わせる」というFateのシステム自体がすでにオールスター的ともいえるので、今後も期待はできると思うんです。

やはり特撮界に期待か

以上見てきましたが、振り返ってみればなかなか難しい現実が待っていましたね。

逆に言えば「アベンジャーズ」がいかに巨大な物量投下による力技であるかをまざまざと教えられた気分です。

金か、金が全てか。

まあお金は大事ですよね。ほんと。

 

こうしてみると、ある時日本のヒーロー業界に風雲児が現れて、莫大な資金を投じて超豪華なオールライダーかウルトラマンを作る、という筋描きはありえそうな夢にも思えてきませんか。

 

というわけで本日の妄想はここまでにしておきます。

ゴジラvsガメラをまだ待っている筆者でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自閉症のダコタがスタートレックの脚本を届ける旅。「500ページの夢の束」ネタバレ感想

ダコタ・ファニングが自閉症の女性を演じる「500ページの夢の束」を見てきました。

あらすじ

自閉症のため人とうまくコミュニケーションができず、日常生活を送るための訓練を受けているウェンディ。

彼女は大のスタートレックマニアであり、スタートレック脚本コンテストに応募するため作品を書き上げる。

しかしトラブルから脚本の締め切り期日までの郵送に間に合わなくなり、自分の足でロサンゼルスのパラマウントピクチャーズまで届けることに。

毎日決まったルーティンをこなすだけだったウェンディの初めての冒険がはじまる。

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大人になったダコタの、少女のような演技

言わずと知れた名子役として名を馳せたダコタ・ファニング。

しかし長じてからは露出も少なくなり、僕もこの映画で何年振りかに彼女を見ました。

美人さんになって……。

しかしどこか子役時代の少女ぽさも感じられて、今回のトレッキーな自閉症女性という役どころにぴったりの配役だったと思います。

スタートレックマニアの紳士諸兄におかれては、この映画でのダコたんには萌えて萌えてしょうがないのでは。

 

スタートレックとは、宇宙船エンタープライズ号のカーク船長や宇宙人スポックなどの仲間たちが未知の宇宙を冒険するSFシリーズであり、今作の主人公ウェンディの旅もスタートレックにおける未知への旅と重ね合わされています。

スタートレック好きは「トレッキー」と呼ばれ、マニアともなれば膨大な物語や設定を語り出して止まらない一大コンテンツです。

 

ウェンディは姉家族と暮らすために日常生活の訓練を受けながら、スタートレック脚本コンテストの話を知り、一心不乱に作品を書き上げていきます。

人生ではじめて、創作という行為を通じて、自分の大切なものへと積極的に関わることを決めたウェンディ。

それは単純なファン精神だけではなく、賞金で生家を売りに出さなくて済むように、ひいては自分が再び姉と一緒に暮らせるようにするという目的もあっての行動でした。

 

トラブルのため郵送に間に合わなくなり、書き上げた脚本を届けるためにロサンゼルスへの270kmの旅を始めるウェンディ。

愛犬ピートが一緒ではあるものの、人生初の1人旅は全くスムーズにいきません。

旅の途中で出会う人々の無情さ、悪意、そして時に善意。

その割合がなんとも生々しい混ざり方で、あー、だいたい見知らぬ人の態度の割合ってこんな感じじゃないかなと思わされます。

 

「優しい眼差し」で見つめる「優しくない世界」

この映画は優しい映画ではありますが、いわゆる「優しい世界」を描いた映画ではありません。

ウェンディの挑戦を見つめるカメラの視線、つまり観客の視線は優しいものですが、ウェンディを取り巻く世界は決してウェンディに都合のいいように動いてくれるようにはなっていません。

iPodを盗まれ、乗った車が事故に遭い、大切な脚本がばら撒かれる。

多難なウェンディの旅路を、どこまでもウェンディに寄り添い、しかし決してウェンディと同化することなく淡々と外から見守っていく。

それがこの映画の「視点」です。

 

観客の「上から目線」を覆すウェンディの執念

日常生活もうまくこなせないウェンディが、旅の途中で困難に見舞われ、なんとか乗り越えて進むたびに、僕ら観客は「いいぞ、よくやってるぞ」と心中で声援を送ります。

しかし、自分でもうっすら自覚があったのですが、その立場はどこか上から目線で、「普通のことを普通にできる」という自分の立場から「えらいぞ」というニュアンスを含んだものであったことは否定できません。

そんな自分の上から目線が、明確に覆されるシーンがありました。

 

ウェンディは事故で運ばれた病院から抜け出す際に、大切な原稿を地面にばら撒いてしまい、100ページほどを失ってしまいます。

期日は翌日。

元データもなく、もうどう考えても応募は絶望的な状況で、ウェンディはなんと不足した分を別の紙に手書きで書き始めるのです。

これは、きっと僕にはできません。

家にいるわけではないのです。

もちろんパソコンもワープロも、スマホすらありません。

見知らぬ土地の道端で、先の見通しも立たないその状況で、身を屈めて原稿を手書きするウェンディを見た瞬間、僕は彼女を見上げる立場となりました。

 

この映画はきっと「物語る」ことを肯定する映画です。

普段の生活がうまくできなくて、人との日常会話もおぼつかないウェンディが、唯一他者のことを考え抜き、他者に向かって全力を尽くせることが「物語」でした。

それまでのウェンディは、ときたま処理できない問題を前にすると感情のコントロールを失い、なんでもないことでも癇癪を起すという問題を抱えていました。

しかし、たどり着いたパラマウントで原稿を手渡ししようとして「手続きが違う」と断られたとき、ウェンディは初めて「癇癪」ではなく「怒った」のでした。

明確に、自分がやってきたことを侮った人間に対して、じつに正当に怒ることができたのです。

自分の決めた道を執念で歩き切り、その結末までをすぐそばで見守っていた観客には、もうウェンディが頼りない自閉症の女性には見えません。

「物語」を綴るというのは、自分の声を聴くということです。

自分という存在を見つめなおし、自分が持っているものに自信を持つことができたウェンディは、やっと姉とその赤ちゃんの元へ胸を張って帰ることができました。

 

秋のはじめにおすすめ

この映画は音楽も自分好みで、全般的にエレクトロニカ系のBGMが淡々と流れているのですが、それがウェンディの旅を一歩引いたところから優しく見守っているような印象を与えます。

悪い奴も、ひどい事態も起こりますが、このBGMのおかげであまり悲壮にならないんですね。

スタートレック好きのダコタ・ファニングの旅、というところが気になって見てみた本作ですが、なんとも不思議な透明感に満ちたさわやかな映画でした。

秋のはじまりに見るのにオススメの作品です。

 

 

 

 

 

 

ステイサムの主人公補正は噛みちぎれない。「MEGザ・モンスター」感想

実在した超巨大サメ「メガロドン」vsジェイソン・ステイサムで話題の海洋SFモンスター映画を見て来ました。

サメ映画を見るのは久しぶりで、最近は「シャークネード」などのイロモノ映画しかなかった印象でしたが、「MEG」はなかなかどうして、しっかり正統派サメ映画やってました。

以下、ネタバレ含みレビュー書いていきます。

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追いかけられ、足が思うに任せない悪夢

サメ映画というジャンルのホラー界における存在意義として、海を舞台にすることで、人間の身動きが圧倒的に制限されてしまうという点があげられると思います。

よく何かに追いかけられる悪夢を見る時、全速力で走っているのに足がついてこないということがあると思いますが、水の中でサメに追いかけられるというのはまさにこの悪夢の状況そのものなんですね。

実際問題として、「サメ」というのは他のホラー映画のモンスターと比較すれば特に強いというわけでもなく、いくら大きくても銃で死ぬし、知能も低い。

しかし、水中で身動きがとれず、しかも遮蔽物も何もない海のど真ん中で、自在に泳ぎ回るサメに襲われるという恐怖は、陸上でどんな強力なモンスターに襲われる状況と比較しても相当に大きなものです。

しかしこの恐怖感を演出しようとすると、その方法はかなり限られてしまい、そのほとんどはスピルバーグ監督の傑作「ジョーズ」で最初からやり尽くされてしまった感もありました。

 

そんなサメ映画の後輩たちが偉大すぎる先輩から独り立ちするために編み出した手段こそ「メガシャーク」であり「シャークネード」であり、ある意味では革新的なシリーズだったわけですが、もはやホラーとしての体はなしていません。(好きですが)

この「MEGザモンスター」は、久方ぶりに真っ向勝負の正統派サメ映画として、偉大な先達に迫ることができるか、という点がまずひとつの見どころと言えます。

 

ステイサムの安心感と、反比例する脇役の不安感

本作の主演はご存知ジェイソン・ステイサム。

「トランスポーター」「エクスペンダブルズ」などでお馴染みの、基本出てくると死なない系オヤジです。

とにかく服は脱いでも主人公補正は脱がないステイサム。

劇中、ステイサムがメガロドンに向かって生身で泳いでいくというひどい場面があるのですが、その時でさえただよう安心感たるや。

下手すると勝ってしまうのではと逆にハラハラします。

あ、各所で言われていますが、元飛び込み選手だったステイサムのフォームはやはり綺麗でした(笑)

あと、子供に見せる笑顔がイイですね。

 

そういう意味では、「主人公の危機にハラハラする」という場面においても我々はステイサムに全幅の信頼を置いて見ていられるので、ホラーの醍醐味もなにもあったものではありません。

ただ、その副作用というか、脇役の死にそう度がいっそう際立つ結果となっており、そっちではなかなか気を揉ませるのがうまい演出となっています。

 

もっとも、一番ハラハラしたのがワンコがメガロドンに追いかけられてる場面だったので、不安を煽る演出がうまかったかと言われると「それなり」というしかありません。

逆に言えば、あまり気を張らずにポップコーンをぱくつきながらでっかいサメが暴れるさまをながめられる映画ということもできますね。

 

 

ふんだんに投入された最新海洋SFガジェット

でかいサメはそれだけで見ていて飽きませんんが、この映画のもうひとつの見どころとして近未来的な潜水艇などのガジェットの魅力があります。

昔はガンダムでしか見られなかった全面モニター式の操縦席が、ほとんど現代の設定の作品で違和感なく投入されているのがたまりませんね。

もっとも、このモニターはホラーとしてみると閉塞感に欠けるので、やはり近未来海洋サファリ体験として見たほうがこの映画は楽しめるような気がしてきました。

クジラもいるしね!

 

それにしても、この洗練された最新ガジェットを運用して違和感のない中国。

「神舟」計画で宇宙分野での技術の大躍進を見せつけた中国ですが、いまやハリウッドの認識においても最新ガジェットの担い手というイメージへと変わってきているんですね。

「トゥームレイダーファーストミッション」における日本を扱う手つきの雑さと対照をなしているような気もします。

 

凡作ながら安心してサメを眺められるサファリ映画

総評としては、久々の正統派サメ映画として手堅く作ってある反面、突出した部分もない「良作」どまりの映画という印象でした。

ただやはり売りであるメガロドンの巨大な「口」の演出は、巨大なものへの根源的な恐怖と興味を煽りますし、古代に実在した怪物を現代文明と出会わせるという意味での画面作りは大成功していたと思います。

特に海水浴中の人々の真下をよぎる巨大なメガロドンの影という空撮にはワクワクしました。

すれっからしのオタクには恐怖感は足りない作品だと思いますが、そうでない人には十分怖い良質なサメ映画かと思います。

 

「正義」と「真実」、どちらをとるか?「検察側の罪人」感想

木村拓哉と二宮和也のW主演で話題沸騰、原田眞人監督の最新作「検察側の罪人」を見てきました。

この記事では、実際に見て感じたこの映画の魅力を、極力ネタバレなしで書いていきます。


キムタクとニノの対決はどうだったか?

なんといってもこの映画を観る動機として1番あげる人が多い点は、キムタクとニノの共演だと思います。

2人の演技対決はどうだったか?

結論から言えば、素晴らしかった!

今作で2人が演じるのは検事。

木村は上司、二宮は駆け出しの部下として、共に働く間柄です。

二宮演じる沖田は、木村演じるエリート検事最上の正義を継ぐと自負しているほど彼に心酔しています。

最上もまた沖田の能力を買っていて、2人は理想の上司と部下といえる間柄です。

この2人の関係が、発生した殺人事件の調査線上に浮上した松倉という人物を巡り、ゆっくり狂い出します。

最上は法に逆らってでも自分の正義を貫こうとし、沖田はあくまで真実を重視すべきと主張します。

キャラクターとしては、木村は厳しくも激することのない大人の男、二宮は駆け出しながら有能、しかし時に感情に任せて激する若手という感じ。

あくまで木村が上というスタンスではありますが、しかしニノの、被疑者を前にした時のくせ者感もまた印象深く、ただの木村の子飼いという感じは全くありません。

そして木村拓哉もまた新境地といった演技で、今作の木村は全くヒーローとは程遠い存在です。

一見スマートでやり手のエリート検事の役どころかと思えば、中盤から後半にかけて、こんなキムタク見せていいのか、というような「激しい」演技を見せています。

はっきりいって、かっこ悪いんです。

この映画の根底に関わるシーンなのでネタバレなしでは説明できませんが、この「かっこ悪いキムタク」なくしてこの映画のテーマは語れなかったと思います。


名匠原田監督が選んだ今作のテーマ

この映画のテーマは各所で「正義とは何か」だと語られていますが、僕が見た印象はちょっと違っていて、「本当の正義なんてあるのか?」というほうがしっくりくるのです。

劇中、木村演じる最上は、松倉を裁きたいあまりに「ある行動」を起こします。

この行動を糾弾するのが本作の二宮演じる沖田の役どころとなるのですが、彼は「真実こそが正義」と信じていて、敬愛する最上を相手にしてもそれを曲げません。

では沖田に何ができたのか?

いや、立場を全く違えながら、同じく正義を標榜する二人それぞれに、何かをやり遂げることができたのか?

結末は実際に見てのお楽しみとなりますが、ここではその2人の「正義」を取り巻く不穏な背景にだけ言及しておきます。


今作で登場する不気味な犯罪者、松倉。

しかし、さらに不気味で巨大な存在が随所に顔を見せます。

最上の親友、丹野議員が戦う相手、高島グループです。

太平洋戦争を肯定し、日本を戦争国家に戻そうという思想を持つ勢力ですが、こんな思想の持ち主が実際に政局の重要な位置を占めているという危機感が、この映画の通奏低音のように流れています。

「悪」はどうしようもなくはっきりと見えています。

しかしその悪に対する正義の姿が見えない。

確かだと思った正義を成そうした時、気づけば自分も悪の側にいる。

「ただ一つの確かな正義」を求めたときに起こるこの矛盾、その危険性こそ、この映画最大のテーマなのかもしれません。


同じく「正義」を求めながら、最上も沖田も最後まで振り回され、行動は首尾一貫せず、頭を掻きむしって苦悩します。

その様はドストエフスキー「罪と罰」の物語に酷似しながら、しかし非常に現代的でもあります。


キムタクとニノの「対決」として売り出される今作ですが、それはある意味間違いありません。

しかしこの2人は強い信念を元に行動するものの、その行動のもたらす結果に戸惑い、迷ってばかりいます。

さらに独自の目的を持ち動く橘(吉高由里子)、独特の原理で動く裏社会の執行者ともいうべき諏訪部(松重豊)らも絡み、世界の複雑さ、複層性が描き出されます。

単純な信念の対決という構図だけでは測れない、「悪」との戦いが「正義」には難しくなってしまった社会。

それが、この「検察側の罪人」が描き出した現代社会の姿でした。












「ガーディアンズオブギャラクシー」シリーズをやっと見た

9月5日から「アベンジャーズ/インフィニティウォー」のレンタルが開始されるので、それまでになるべくMCUの見逃しを潰しておこうと思い、とりあえず「ガーディアンズオブギャラクシー」2作を立て続けに観ました。

ちなみに「インフィニティウォー」は劇場で観るつもりだったのに、その前に「ガーディアンズオブギャラクシー」を見とこうとしたら考えることはみんな同じで常にレンタル中。

結局上映期間を逃した愚か者です。

 

食わず嫌いしてたワケ

なんでガーディアンズオブギャラクシーをスルーしてたかといえば、ぶっちゃけ僕はアメリカのコメディタッチ作品を食わず嫌いするケがありまして。

しかもキャラクターの肌が青かったり緑だったりで、何となく「チープなSF」感を感じて触手が伸びなかったんですね。

しかも公開当時はこのシリーズがMCUに関わることすら知りませんでしたw

ということで、正直「インフィニティウォー」のための消化試合くらいの気持ちで見始めたんですが。

なにこれめっちゃ面白い……。

いやあ、想像の遥か上をいく完成度。

自分の中ではMCU中暫定1位じゃないかなってくらいでした。

 

昔のパルプSFを思わせながらも古さを感じさせない極彩色の宇宙。

異様に立ちまくるキャラクターの個性。

くだらなくもハイセンスすぎる笑い。

どう考えてもアンマッチなのになぜかマッチしすぎる80年代の名曲たち。

観る前に食わず嫌いしていた部分がほとんどそのままよかった部分としてあげられてしまう。

 

キャラが良すぎ

特に好きだったのは青顔のオッサン、立木文彦の声が宇宙一似合う男ヨンドゥですね。

北斗の拳なら真っ先にひでぶされそうな見た目なのに、なんですかあの出鱈目な矢みたいな武器は。

まるで群衆の写真集に子供が線で落書きするような、とにかく理不尽な殲滅力に驚きました。

あのシーンで一気に好きなキャラに躍り出ましたね。

「リミックス」でも矢のアクションはたっぷり堪能できました。

 

それからアライグマのロケット。

イケメン。

1ではまだマスコットっぽい可愛らしさも見せていましたが、リミックスではグルートの保護者という立場もあって完全にイケメン化。

またデタラメに強いし機械にも明るいで頼れるんですよ。

ついて行きたくなるアライグマですね。

 

グルートは1とリミックスでほぼ別人扱いですが、チビグルートが異常に可愛い。

性格が元のグルートと全然違うのが面白いですね。

エンディングでグレてたのが気になりますがw

原語の声はなんとヴィン・ディーゼル、吹き替えが遠藤憲一という豪華さですが、なんとチビグルートもエンケンさんのままなんですな!

どうりで声がキモカワだったわけで。

 

冒険の舞台が良すぎ

このシリーズの魅力の一つは、文字通り宇宙を股にかけて色々な星が舞台になるところですね。

特に「天界人」という巨大な種族の遺骸がそのまま遺跡となった「ノーウェア」は圧巻。

またリミックスで訪れる「エゴ」の星の風景は、「イバラードの世界」を彷彿とさせる極彩色の楽園です。

 

物語が軽快

物語も、何気に重いテーマを扱いながらあくまで軽快に進むのが気持ちよかった。

これ、今流行りのポリコレとは真逆のスタンスながら、実は究極のポリコレ作品なんじゃないでしょうか。

みんなちがってみんないい、しか許されないなんてことはなく、キャラクター達はお互いの外見を馬鹿にしたり気にしたり遠慮なく振舞いますが、それでも仲間であることには違いないという。

リミックスで、ドラッグスがマンティスのことを散々「醜い、醜すぎる」と正直に伝えながら、しかしそれは罵倒でもなんでもなく、2人の間の絆には何の支障もなかったというのは、ガン監督なりの世界観をもっとも表しているように感じました。

 

ジェームズ・ガン監督解任が残念すぎる

2作見終えた今、返すがえすもガン監督解任が惜しいし、納得もいかない思いです。

経緯をチラ見した感じでは、確かに不適切な言動が昔あったようですが、しかし10年前の、別に誰か特定の人を傷つけたわけでもない、本人も悔いていることを明言している発言です。

どうもトランプ政権をめぐる不毛な言説合戦に巻き込まれ、不要なトラブルを嫌うディズニーの潔癖症が発揮されたという印象です。

言説を見るというなら、この「ガーディアンズオブギャラクシー」シリーズ以上にガン監督の思想を表現した言説もないだろうに。

「ブラックパンサー」で黒人に関する表現の歴史がひとつ進む一方での今回の「ガーディアンズ」の挫折。

アメリカはもう以前の自由の国とは様変わりしてしまったということを実感しますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

製作総指揮とは何か?「映画そこからですか!?」①

こんなブログを立ち上げておいてなんですが、僕は映画に関してド素人です。

映画自体は小さな頃から気の向くままに見てきましたので俳優なんかはそこそこわかるつもりですが、裏方の仕事などにはほとんど関心も持たず、ぼへらーっと見てきたので、映画に関する基本的な役職やら業界のことをほとんどスルーしてきました。

なので「この撮影監督の技術が!」とか「今回はプロデューサーがいい仕事した」とか、そういういかにもなオタクトークができないんですね。

せっかく映画ブログはじめたのにこれは悔しい!

ということで、この機会に(?)何回かに分けて映画の常識的な事柄について、池上彰的にほんとの初歩から調べてまとめてみようと思います。

 

第1回は『「製作総指揮」とはなんぞや?』です

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映画における「制作総指揮」

よく映画の予告を見ると、デカデカと「製作総指揮スティーブン・スピルバーグ」とかうたわれてますよね。

この「製作総指揮」は一体何をする人なのか?

ちなみに「製作」とは一般的にプロデューサーのことを指すようです。

では「製作総指揮」は文字通りプロデューサーを指揮する立場?

この解答は当たらずとも遠からずといったところのようです。

「製作総指揮」は、横文字にすると「エグゼクティブプロデューサー」となりますが、この役職は映画に限らず、音楽やテレビ番組にも存在します。

それぞれの業界で「エグゼクティブプロデューサー」の役割はかなり違うようですが、ここでは映画に絞って話をしていきます。

 

「制作総指揮」=出資者

映画製作における「製作総指揮」の立場とは、おおむね「主な出資者」であることが多いようです。

「おおむね」というのは、やはり作品によって役割にかなり幅があり、出資だけして作品にはノータッチな人、作品についての権利を持っていて名前だけ貸している人もいれば、作品についてかなり口出しする人もいるようです。

製作総指揮というだけあって権限は大きく、監督含めキャストやスタッフに関する決定権も持ちます。

 

さきほど例にあげたスティーブン・スピルバーグについては、例えば「ジュラシックパーク」では監督を務めましたが、近年の「ジュラシックワールド」シリーズでは製作総指揮としてクレジットされています。

ここでは大まかな構想やイメージを元に監督の選出などには関わっているみたいですが、立場としては出資者兼名義貸しの意味合いが強いようですね。

例え直接製作に関わっていなくても、スピルバーグがバックについてるという安心感がプロモーションにも効果的なんでしょう。

 

口を出す「制作総指揮」

日本でパッと思いつくのは、「ワンピース」の劇場版ですね。

途中の作品から原作者尾田栄一郎が「製作総指揮」として関わることが発表され、作風も変化していきました。

これについては尾田栄一郎は製作全般にわたってかなり関わり、またストーリー原案や設定画も提出するなど、「製作総指揮」を文字通りに体現するような活躍をしたようです。(ここまでいくと「プロデューサー」そのものという感もありますが)

 

このワンピース劇場版以降、ジャンプ系アニメ劇場版では「ドラゴンボール」で鳥山明が、「BORUTO」で岸本斉史が製作総指揮にクレジットされるなど、原作者を製作総指揮として大々的に打ち出して作品の質を担保しよう、というふうにも取れるプロモーション手法が目立ってきたように思います。

特に漫画原作の劇場版アニメでは原作と違うオリジナルストーリーになることが多いため違和感を感じる原作ファンも多く、原作者をバーンと制作総指揮として打ち出すことでそういったファン層を取り込むことも狙っているのかもしれません。

この「製作総指揮」という肩書、「大仰な響きだけど特に具体的に何やる人か決まっていない」というところがミソで、映画そのものに関しては素人のはずの大御所を作品にクレジットするのに役立つんでしょう。

 

このように、同じ映画業界の「製作総指揮」でも、日本とハリウッドで、また実写とアニメでも意味合いが微妙に違うようです。

制作総指揮、ほとんど指揮ってないじゃん!

という感想は置いておくとして。

基本的には作品のパトロンのような立ち位置をとりつつ、大御所や実績のある人物がつく場合には、作品のクオリティの「裏打ち」的存在としてプロモーションでも大々的に打ち出される役割というところでしょうか。

しかし資金不足の小さなプロジェクトではほとんど下働きみたいな役回りをする「製作総指揮」もいるそうなので、本当に千差万別なようです。

 

まとめ

映画における「製作総指揮」とは

・その作品への主な出資者

・大御所監督の名義貸し

・作品にはノータッチの場合も多いが、人事などに絶大な権限を持つ

・原作者など、たまに製作にがっつり関わる人もいる

 

次回も映画製作に関わる役職についての基礎の基礎を見ていきたいと思いますので、よろしければご一読ください。

それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「ペンギン・ハイウェイ」考察 「お姉さん」は何者だったのか?

映画「ペンギン・ハイウェイ」の感想については別記事で思いの丈をぶちまけましたので、今回はこの映画を見た多くの人が気になっているであろう、「お姉さんとは何者だったのか」を作中のヒントから考えてみようと思います。

ただし、薄々お分りの方も多いと思いますが、やはり明確に「これだ!」という結論はでない問題なので、一つの解釈としてお読みください。

なお、本作の展開に言及する部分が多いので完全ネタバレとなります。

これから観る、或いは原作を読む方はご注意下さい。

以下、ネタバレ記事です。

 

「お姉さん」=「海」=「謎そのもの」

結論から言えば、「海」も「お姉さん」も、ともに「謎そのもの」のメタファー(暗喩)です。

いや、物を投げないでください。説明します。

つまり、あれらが具体的に「何」なのか誰もわからない、わかりようがない。

そのことこそが重要な点であり、「謎」そのものとして括弧で括られる状態こそが正しい状態といえるでしょう。

もちろん、見た人が勝手に「宇宙人である」とか「深層意識が具現化したものだ」という予想を立てるのは自由ですが、作中にそれを決定づける情報はありません。

宇宙人であってもいいし、そうでなくても別にこまらないのです。

作中の「お姉さん」の最も重要な存在意義は「お姉さん」であることであり、アオヤマ君にとって魅力的な「謎」であることだからです。

原作のあとがきを読んだ人、SFを好きな人なら知っていることですが、原作者の森見登美彦は本作の「海」について、SF小説の傑作「ソラリスの陽のもとに」にインスパイアされたことを明かしています。

「ソラリス」とは、作中に出てくる惑星の名前であり、その星は全体を海そっくりの知的生命体に覆われています。

この「海」のような生命体は、知的活動を行うことまでは分かっていますが、その生態や行動原理などはどれだけ研究しても全く分からず、「ソラリス学」という学問までが誕生するほどの大きな謎として扱われています。

「ペンギンハイウェイ」の「海」はもちろんこれとは別物だと思いますし、そもそも生命体であるかも疑わしいですが、「なんだかさっぱりわからないもの」という認識において共通する存在です。

そして「海」とは全く別ベクトルでありながら、アオヤマ君の中では未知度の点で双璧を成すのが「お姉さん」です。

なぜお姉さんを見ていると幸せなのか。

なぜお姉さんの顔は僕の好きな形をしているのか。

科学の論理では説明できない始めての気持ちにアオヤマ君は答えを出せないでいます。

今作は一貫して、アオヤマ君が謎を追い求めるという構図に貫かれています。

 

「海」と「お姉さん」は連動していることが分かっており、「海」が消えれば「お姉さん」も消えてしまいます。

「海」と「お姉さん」は、同じ一つの「謎」の見せる、異なる「面」であるとも言えます。

或いは光と影、陰と陽という言い方もできるでしょう。

ともに、アオヤマ君にとって未知の存在であり、興味の尽きない研究対象である点においても、「海」と「お姉さん」は並び置かれる存在です。

 

「アオヤマ君の世界」と、埋められるべき穴としての「果て」

ところで、アオヤマ君は作中で、「海」のことを「内側に潜り込んだ世界の果て」「穴」だと看破しました。

つまりそれは「埋められるべきもの」だという事です。

世界に生じた「穴」としての「謎」あるいは「未知」。

その謎を研究し解くことこそ、アオヤマ君が「えらくなる」方法であったのです。

しかし、「謎」とは解かれれば消えてしまうものです。

謎とはつまり「お姉さん」のことでした。

劇中、アオヤマ君はそのことを予感し、研究の凍結をも申し出ています。

しかし最終的には、アオヤマ君はその謎を解かずにはいられませんでした。

謎そのものと一体である「お姉さん」は、この時点で消滅することが確定していたのです。

 

劇中でアオヤマ君が「海」の謎に気づくことになった重要なヒントとして、お父さんの「小さな袋に世界を入れるにはどうすればいいか?」という謎かけがあります。

答えとして、袋の内側を裏返して表にしてしまえば、世界は袋の裏側に入り込んだともいえるのではないか、とお父さんは説明しています。

ところでこの考え方をそのままアオヤマ君と「海」の関係に当てはめてみるとどうでしょうか?

つまり、「海」が「世界の果て」「穴」である、つまり「世界の未知の部分」であるならば、「海」の外側は全てアオヤマ君の世界であるともいえるでしょう。

世界への探究心に突き動かされて日々色々なことを知っていくアオヤマ君に、ある日最大の謎が現れます。

他でもない「お姉さん」です。

「お姉さん」の存在は、アオヤマ君の世界においてぽっかり空いた「穴」、埋めるべき「謎」であり、同時に全ての命の源でもある「海」の形をしていました。

アオヤマ君は、このあまりに魅力的な研究対象を解き明かしてしまったことで、人生で初めての「喪失」を経験することになってしまうのです。

 

「象徴」として、「人間」として

「お姉さん」の役割は、ペンギンを生み出して「海」を壊すこと、言いかえると「穴」を修復することだとアオヤマ君は結論づけました。

なぜお姉さんが生み出すのがペンギンなのかは正直わかりません。

しかし一見可愛らしく描かれるペンギンが「海」を壊すたびにお姉さんの消滅が近づくということは、お姉さんにとってペンギンを出すのは自殺行為に等しい。

対してお姉さんは体調不良の時には「ジャバウォック」を生み出し、これらはペンギンを食べて「海」を大きくします。

こうしてみると、「お姉さんは海を修復するために生まれた」というよりも、「お姉さんと海は全く同じ一つの存在」というほうがしっくりきます。

 

ところで「ジャバウォック」ですが、いかにも不気味な見た目をしていてお姉さんの体調が悪いときに出現するため、不吉な存在であるかのように描かれますが、本当にそうでしょうか?

先に述べたように、ジャバウォックがペンギンを食べるほど、お姉さんは長く存在できるのです。

「ジャバウォック」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する怪物です。

そしてこの怪物が書かれた「ジャバウォックの詩」は鏡文字で書かれていました。

「鏡の国のアリス」はご存知の通り全てがあべこべの世界です。

ということは、「ジャバウォック」と名付けられたこの不吉な怪物は、実はお姉さんの「生」を司る守護者のような存在なのではないでしょうか。

 

ペンギンは「海」を壊す、つまり「穴」を埋めていきます。

すなわち、アオヤマ君がお姉さんの存在を解き明かし、謎を埋めていく過程そのものと考えることもできます。

それに対してジャバウォックはペンギンを食べ、「海」を、つまり「謎」を大きくしてしまいます。

お姉さんという謎を日々解いていくアオヤマ君と、そう簡単には解き明かすことはできない「他者」としてのお姉さん。

ジャバウォックの存在が、ただの象徴ではない、個の人間としてのお姉さんを表現し、深みを与えています。

最終的にはアオヤマ君が「エウレカ」に至ることで「海」と「お姉さん」は消えることになってしまいますが、それはアオヤマ君にとってもまた大きな、そして初めての「喪失」となるのです。

 

失うことで得たもの

探求することが何かを失うことにつながることをアオヤマ君は知りました。

しかしラストシーンでも、アオヤマ君の冒頭

と同じセリフが繰り返されます。

彼は世界について知ることをやめません。

これまでと同じように科学的に物事を探求します。

そして、冒頭と違うことは、その探求を続けることがいつかお姉さんとの再会へと続いていると信じる「信念」が彼の中で生まれたことです。

この映画は、主人公とヒロインの関係がそのまま世界の変質へとつながる、いわゆるセカイ系の枠組みを持つ物語です。

この映画の一面の顔として、アオヤマ君という少年の内面と世界の関わり方の変化を、「お姉さん」を媒介にして描き出す成長物語だったと言えるかと思います。