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映画「ペンギン・ハイウェイ」考察 「お姉さん」は何者だったのか?

映画「ペンギン・ハイウェイ」の感想については別記事で思いの丈をぶちまけましたので、今回はこの映画を見た多くの人が気になっているであろう、「お姉さんとは何者だったのか」を作中のヒントから考えてみようと思います。

ただし、薄々お分りの方も多いと思いますが、やはり明確に「これだ!」という結論はでない問題なので、一つの解釈としてお読みください。

なお、本作の展開に言及する部分が多いので完全ネタバレとなります。

これから観る、或いは原作を読む方はご注意下さい。

以下、ネタバレ記事です。

 

「お姉さん」=「海」=「謎そのもの」

結論から言えば、「海」も「お姉さん」も、ともに「謎そのもの」のメタファー(暗喩)です。

いや、物を投げないでください。説明します。

つまり、あれらが具体的に「何」なのか誰もわからない、わかりようがない。

そのことこそが重要な点であり、「謎」そのものとして括弧で括られる状態こそが正しい状態といえるでしょう。

もちろん、見た人が勝手に「宇宙人である」とか「深層意識が具現化したものだ」という予想を立てるのは自由ですが、作中にそれを決定づける情報はありません。

宇宙人であってもいいし、そうでなくても別にこまらないのです。

作中の「お姉さん」の最も重要な存在意義は「お姉さん」であることであり、アオヤマ君にとって魅力的な「謎」であることだからです。

原作のあとがきを読んだ人、SFを好きな人なら知っていることですが、原作者の森見登美彦は本作の「海」について、SF小説の傑作「ソラリスの陽のもとに」にインスパイアされたことを明かしています。

「ソラリス」とは、作中に出てくる惑星の名前であり、その星は全体を海そっくりの知的生命体に覆われています。

この「海」のような生命体は、知的活動を行うことまでは分かっていますが、その生態や行動原理などはどれだけ研究しても全く分からず、「ソラリス学」という学問までが誕生するほどの大きな謎として扱われています。

「ペンギンハイウェイ」の「海」はもちろんこれとは別物だと思いますし、そもそも生命体であるかも疑わしいですが、「なんだかさっぱりわからないもの」という認識において共通する存在です。

そして「海」とは全く別ベクトルでありながら、アオヤマ君の中では未知度の点で双璧を成すのが「お姉さん」です。

なぜお姉さんを見ていると幸せなのか。

なぜお姉さんの顔は僕の好きな形をしているのか。

科学の論理では説明できない始めての気持ちにアオヤマ君は答えを出せないでいます。

今作は一貫して、アオヤマ君が謎を追い求めるという構図に貫かれています。

 

「海」と「お姉さん」は連動していることが分かっており、「海」が消えれば「お姉さん」も消えてしまいます。

「海」と「お姉さん」は、同じ一つの「謎」の見せる、異なる「面」であるとも言えます。

或いは光と影、陰と陽という言い方もできるでしょう。

ともに、アオヤマ君にとって未知の存在であり、興味の尽きない研究対象である点においても、「海」と「お姉さん」は並び置かれる存在です。

 

「アオヤマ君の世界」と、埋められるべき穴としての「果て」

ところで、アオヤマ君は作中で、「海」のことを「内側に潜り込んだ世界の果て」「穴」だと看破しました。

つまりそれは「埋められるべきもの」だという事です。

世界に生じた「穴」としての「謎」あるいは「未知」。

その謎を研究し解くことこそ、アオヤマ君が「えらくなる」方法であったのです。

しかし、「謎」とは解かれれば消えてしまうものです。

謎とはつまり「お姉さん」のことでした。

劇中、アオヤマ君はそのことを予感し、研究の凍結をも申し出ています。

しかし最終的には、アオヤマ君はその謎を解かずにはいられませんでした。

謎そのものと一体である「お姉さん」は、この時点で消滅することが確定していたのです。

 

劇中でアオヤマ君が「海」の謎に気づくことになった重要なヒントとして、お父さんの「小さな袋に世界を入れるにはどうすればいいか?」という謎かけがあります。

答えとして、袋の内側を裏返して表にしてしまえば、世界は袋の裏側に入り込んだともいえるのではないか、とお父さんは説明しています。

ところでこの考え方をそのままアオヤマ君と「海」の関係に当てはめてみるとどうでしょうか?

つまり、「海」が「世界の果て」「穴」である、つまり「世界の未知の部分」であるならば、「海」の外側は全てアオヤマ君の世界であるともいえるでしょう。

世界への探究心に突き動かされて日々色々なことを知っていくアオヤマ君に、ある日最大の謎が現れます。

他でもない「お姉さん」です。

「お姉さん」の存在は、アオヤマ君の世界においてぽっかり空いた「穴」、埋めるべき「謎」であり、同時に全ての命の源でもある「海」の形をしていました。

アオヤマ君は、このあまりに魅力的な研究対象を解き明かしてしまったことで、人生で初めての「喪失」を経験することになってしまうのです。

 

「象徴」として、「人間」として

「お姉さん」の役割は、ペンギンを生み出して「海」を壊すこと、言いかえると「穴」を修復することだとアオヤマ君は結論づけました。

なぜお姉さんが生み出すのがペンギンなのかは正直わかりません。

しかし一見可愛らしく描かれるペンギンが「海」を壊すたびにお姉さんの消滅が近づくということは、お姉さんにとってペンギンを出すのは自殺行為に等しい。

対してお姉さんは体調不良の時には「ジャバウォック」を生み出し、これらはペンギンを食べて「海」を大きくします。

こうしてみると、「お姉さんは海を修復するために生まれた」というよりも、「お姉さんと海は全く同じ一つの存在」というほうがしっくりきます。

 

ところで「ジャバウォック」ですが、いかにも不気味な見た目をしていてお姉さんの体調が悪いときに出現するため、不吉な存在であるかのように描かれますが、本当にそうでしょうか?

先に述べたように、ジャバウォックがペンギンを食べるほど、お姉さんは長く存在できるのです。

「ジャバウォック」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する怪物です。

そしてこの怪物が書かれた「ジャバウォックの詩」は鏡文字で書かれていました。

「鏡の国のアリス」はご存知の通り全てがあべこべの世界です。

ということは、「ジャバウォック」と名付けられたこの不吉な怪物は、実はお姉さんの「生」を司る守護者のような存在なのではないでしょうか。

 

ペンギンは「海」を壊す、つまり「穴」を埋めていきます。

すなわち、アオヤマ君がお姉さんの存在を解き明かし、謎を埋めていく過程そのものと考えることもできます。

それに対してジャバウォックはペンギンを食べ、「海」を、つまり「謎」を大きくしてしまいます。

お姉さんという謎を日々解いていくアオヤマ君と、そう簡単には解き明かすことはできない「他者」としてのお姉さん。

ジャバウォックの存在が、ただの象徴ではない、個の人間としてのお姉さんを表現し、深みを与えています。

最終的にはアオヤマ君が「エウレカ」に至ることで「海」と「お姉さん」は消えることになってしまいますが、それはアオヤマ君にとってもまた大きな、そして初めての「喪失」となるのです。

 

失うことで得たもの

探求することが何かを失うことにつながることをアオヤマ君は知りました。

しかしラストシーンでも、アオヤマ君の冒頭

と同じセリフが繰り返されます。

彼は世界について知ることをやめません。

これまでと同じように科学的に物事を探求します。

そして、冒頭と違うことは、その探求を続けることがいつかお姉さんとの再会へと続いていると信じる「信念」が彼の中で生まれたことです。

この映画は、主人公とヒロインの関係がそのまま世界の変質へとつながる、いわゆるセカイ系の枠組みを持つ物語です。

この映画の一面の顔として、アオヤマ君という少年の内面と世界の関わり方の変化を、「お姉さん」を媒介にして描き出す成長物語だったと言えるかと思います。