あらすじ
音に反応し人間を襲う“何か”によって荒廃した世界で、生き残った1組の家族がいた。
その“何か”は、呼吸の音さえ逃さない。誰かが一瞬でも音を立てると、即死する。
手話を使い、裸足で歩き、道には砂を敷き詰め、静寂と共に暮らすエヴリン&リーの夫婦と子供たちだが、
なんとエヴリンは出産を目前に控えているのであった。
果たして彼らは、無事最後まで沈黙を貫けるのか――?
「音」をめぐる恐怖演出
世界の終わりに夢見る家族像
ホラー映画史に残るのは間違いなし!
音に反応し人間を襲う“何か”によって荒廃した世界で、生き残った1組の家族がいた。
その“何か”は、呼吸の音さえ逃さない。誰かが一瞬でも音を立てると、即死する。
手話を使い、裸足で歩き、道には砂を敷き詰め、静寂と共に暮らすエヴリン&リーの夫婦と子供たちだが、
なんとエヴリンは出産を目前に控えているのであった。
果たして彼らは、無事最後まで沈黙を貫けるのか――?
1971年、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内には反戦の気運が高まっていた。国防総省はベトナム戦争について客観的に調査・分析する文書を作成していたが、戦争の長期化により、それは7000枚に及ぶ膨大な量に膨れあがっていた。ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。しかし、ニクソン大統領があらゆる手段で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…報道の自由、信念を懸けた“決断”の時は近づいていた。
(公式サイトhttp://pentagonpapers-movie.jp/より)
レンタルが始まった「アベンジャーズ/インフィニティウォー」を見て、やっぱり「アイツも出る!こいつもいる!」というオールスター感はたまらなく楽しいと思いまして。
で、やはり考えてしまうのが、「日本でアベンジャーズのような映画は作れないのか?」ということ。
「アベンジャーズのような」とはどういうことか?
・各々が独立した作品でそれなりの人気と知名度を持ったキャラクターがクロスオーバー
・物語にがっつり絡み、他のキャラクターとがっつり共演
・個々の関係性の物語が全体としての大きな結末へ向けて進んでいく
というのがおおよその要素かなと思っています。
というわけで、現状の日本のクロスオーバー文化を知る限りで挙げていきつつ、上記のような作品が日本で生まれる可能性を探ってみたいと思います。
まずは週刊少年ジャンプ。
映画「アベンジャーズ」はマーベルコミックのキャラクター達の実写化及びクロスオーバー作品なのだから、日本版アベンジャーズといえばやはりジャンプヒーローのオールスターを真っ先に夢想しますね。
しかしマーベル作品とジャンプ作品の大きな違いは、マーベル作品が「同じ世界を共有している」のに対し、ジャンプ作品は個々に独自の世界設定を持っている点です。
アイアンマンとスパイダーマンがすぐ隣に住んでいるような距離感なのに、悟空とルフィは次元を超えてようやく会える。
やはり彼らを「同じストーリー上で」共演させるのにはこの点がネックになるでしょう。
実はジャンプオールスター的な企画はゲームではかなり展開しており、古くは「ファミコンジャンプ」、最近では「ジャンプフォース」が開発中です。
しかし、漫画なりアニメなり、しっかりストーリーを作り込んだ物語での共演は、今のところ難しそうです。
(「ジャンプフォース」は異世界に飛ばされたヒーロー達の物語らしいので、物語も期待できるかもしれません)
ゲームでのクロスオーバーでいえば日本は海外に比べ圧倒的に進んでいます。
今日本で知名度的にも最も大きなクロスオーバー作品といえば「スパロボ」と「スマブラ」でしょう。
「スパロボ」は、メカモノであるならばほぼ全ての作品を物語に取り込むことができる異常な懐の深さを持っています。
物語としても、各作品のキャラクターと設定が絡み合い一つの大きな結末へ向かうというものです。
先に挙げた「アベンジャーズ」の条件を現在最も満たしているのは、実はこの「スパロボ」シリーズと言えるかもしれません。
ただやはりゲームだから出来ているという側面はあるだろうし、これをそのままアニメとして作ることができるかというと難しいのでしょう。
「スマブラ」もやはり日本が世界に誇る大型クロスオーバータイトルで、今や任天堂どころかゲーム業界のオールスター出演といった感もありますが、「物語」ではありませんので、「アベンジャーズのような」という定義からは外れますね。
もちろん参戦キャラ発表時のファンの熱狂は大好きですが(笑)
ゲームは大好きですし、これらの作品を全く否定するものではないのですが、やはりテキストではなく、肉声で、バリバリ動きながら台詞が絡み合うクロスオーバーを見たいというのが正直な欲望です。
では日本が誇る正義のヒーロー、仮面ライダーやウルトラマンではどうか?
どうか?というか、もう散々やってますね。
日本版アベンジャーズに最も近いのはこれらの作品群でしょう。
毎年夏には各ライダーがクロスオーバーする劇場版が公開され、近年は戦隊まで取り込んでの一大ヒーロープロジェクトとなっています。
ウルトラマンは、世界観を共有しつつ個々の作品が作られていった、ある意味で最もマーベルコミックに近い成り立ちのタイトルでもあります。
実は日本ではすでに日本版アベンジャーズがいくつも公開されていた、という結論になりそうですが、今ひとつ納得いかないのはなぜでしょう。
日本の特撮界が素晴らしい仕事をコンスタントに送り出している人材の宝庫であることを承知の上で言ってしまうと。
やはり、規模が。
僕は特撮マニアというわけではないので詳しくは知りませんが、どうやら予算が相当カツカツのようで、どうしても今のライダーやウルトラマン映画は、ハリウッドや日本の「大作」に比べれば「大作」とは言えません。
(出来のよしあしとはまた別の問題です)
アベンジャーズがアベンジャーズたる所以の最後の条件として、やはり「超大作であること」があると思うんですね。
他の映画と同じ1800円で、その映像が観れるというこの上ない贅沢感。
これは、映画の良し悪しとは別ベクトルの贅沢感です。
同規模とは言わない、せめて「いぬやしき」や「るろうに剣心」レベルの制作費で平成オールライダーとかやってくれたら、それこそ日本のアベンジャーズになり得ると思うのですが、どうなんでしょうか。
スーツだけでなく中の人をオリジナルキャストで集結出来ればかなり豪華感が出ることはこの間の劇場版でわかりましたし、もし歴代平成ライダー中の人全員集合できたら、もうアベンジャーズとかどうでもいいレベルで興奮すると思うんですが……。
そういえば「HiGH&LOW」劇場版を見ていた時、平成ライダーに予算をブッ込んだらこんな感じになるかもなーとぼんやり思っておりました。
源治とか完全に怪人でしたね。
世界観を共有しつつ、違うクリエイターが個々の作品を作り続けているコンテンツには、例えばガンダムの宇宙世紀ものがあります。
1年戦争を舞台にした物語はそれこそ無数に作られ、いわゆる正史のキャラがカメオ出演するようなクロスオーバーは随所で見られますが、アベンジャーズ的なオールスター感とは相性が悪いでしょう。(やはりその辺の欲望はGジェネやスパロボなどのゲーム作品がカバーしています。)
もう一つ、いわゆるシェアードワールドの手法でコンテンツを拡大している作品が「Fate」シリーズです。
近年はFGOがすっかりメジャーなゲームとなりましたが、そもそもの原作の奈須きのこ「Fate/Stay night」の他、虚淵玄作による前日譚「Fate/ZERO」や三田誠「ロードエルメロイ2世の事件簿」などなど、複数のクリエイターが同じ世界観を共有しつつ独自の作品を発表しています。
これらはもともと同人作品であったこともあるのでスピンオフの要素が強いが、「Fate/Apocrypha」や「Fate/EXTRA」ではパラレルワールドが舞台になるなど、独自の展開を見せる作品もあります。
さらに言えば、「Fate」世界は奈須きのこによる「月姫」や「空の境界」とも世界観を共有しており、これら関連作品のキャラクターが一堂に会すれば、相当のオールスター感が出るのではと期待してしまいます。
(「カーニバルファンタズム」がありますが、ガチアクションも見たい!)
FGOはオールスター感がありますが、やはり映像作品でのクロスオーバーを見てみたいですね。
このシリーズの場合、映像化の前にまずそういった小説なりテキストが生み出される必要があると思いますが。
「様々な英雄を一堂に集めて戦わせる」というFateのシステム自体がすでにオールスター的ともいえるので、今後も期待はできると思うんです。
以上見てきましたが、振り返ってみればなかなか難しい現実が待っていましたね。
逆に言えば「アベンジャーズ」がいかに巨大な物量投下による力技であるかをまざまざと教えられた気分です。
金か、金が全てか。
まあお金は大事ですよね。ほんと。
こうしてみると、ある時日本のヒーロー業界に風雲児が現れて、莫大な資金を投じて超豪華なオールライダーかウルトラマンを作る、という筋描きはありえそうな夢にも思えてきませんか。
というわけで本日の妄想はここまでにしておきます。
ゴジラvsガメラをまだ待っている筆者でした。
ダコタ・ファニングが自閉症の女性を演じる「500ページの夢の束」を見てきました。
自閉症のため人とうまくコミュニケーションができず、日常生活を送るための訓練を受けているウェンディ。
彼女は大のスタートレックマニアであり、スタートレック脚本コンテストに応募するため作品を書き上げる。
しかしトラブルから脚本の締め切り期日までの郵送に間に合わなくなり、自分の足でロサンゼルスのパラマウントピクチャーズまで届けることに。
毎日決まったルーティンをこなすだけだったウェンディの初めての冒険がはじまる。
言わずと知れた名子役として名を馳せたダコタ・ファニング。
しかし長じてからは露出も少なくなり、僕もこの映画で何年振りかに彼女を見ました。
美人さんになって……。
しかしどこか子役時代の少女ぽさも感じられて、今回のトレッキーな自閉症女性という役どころにぴったりの配役だったと思います。
スタートレックマニアの紳士諸兄におかれては、この映画でのダコたんには萌えて萌えてしょうがないのでは。
スタートレックとは、宇宙船エンタープライズ号のカーク船長や宇宙人スポックなどの仲間たちが未知の宇宙を冒険するSFシリーズであり、今作の主人公ウェンディの旅もスタートレックにおける未知への旅と重ね合わされています。
スタートレック好きは「トレッキー」と呼ばれ、マニアともなれば膨大な物語や設定を語り出して止まらない一大コンテンツです。
ウェンディは姉家族と暮らすために日常生活の訓練を受けながら、スタートレック脚本コンテストの話を知り、一心不乱に作品を書き上げていきます。
人生ではじめて、創作という行為を通じて、自分の大切なものへと積極的に関わることを決めたウェンディ。
それは単純なファン精神だけではなく、賞金で生家を売りに出さなくて済むように、ひいては自分が再び姉と一緒に暮らせるようにするという目的もあっての行動でした。
トラブルのため郵送に間に合わなくなり、書き上げた脚本を届けるためにロサンゼルスへの270kmの旅を始めるウェンディ。
愛犬ピートが一緒ではあるものの、人生初の1人旅は全くスムーズにいきません。
旅の途中で出会う人々の無情さ、悪意、そして時に善意。
その割合がなんとも生々しい混ざり方で、あー、だいたい見知らぬ人の態度の割合ってこんな感じじゃないかなと思わされます。
この映画は優しい映画ではありますが、いわゆる「優しい世界」を描いた映画ではありません。
ウェンディの挑戦を見つめるカメラの視線、つまり観客の視線は優しいものですが、ウェンディを取り巻く世界は決してウェンディに都合のいいように動いてくれるようにはなっていません。
iPodを盗まれ、乗った車が事故に遭い、大切な脚本がばら撒かれる。
多難なウェンディの旅路を、どこまでもウェンディに寄り添い、しかし決してウェンディと同化することなく淡々と外から見守っていく。
それがこの映画の「視点」です。
日常生活もうまくこなせないウェンディが、旅の途中で困難に見舞われ、なんとか乗り越えて進むたびに、僕ら観客は「いいぞ、よくやってるぞ」と心中で声援を送ります。
しかし、自分でもうっすら自覚があったのですが、その立場はどこか上から目線で、「普通のことを普通にできる」という自分の立場から「えらいぞ」というニュアンスを含んだものであったことは否定できません。
そんな自分の上から目線が、明確に覆されるシーンがありました。
ウェンディは事故で運ばれた病院から抜け出す際に、大切な原稿を地面にばら撒いてしまい、100ページほどを失ってしまいます。
期日は翌日。
元データもなく、もうどう考えても応募は絶望的な状況で、ウェンディはなんと不足した分を別の紙に手書きで書き始めるのです。
これは、きっと僕にはできません。
家にいるわけではないのです。
もちろんパソコンもワープロも、スマホすらありません。
見知らぬ土地の道端で、先の見通しも立たないその状況で、身を屈めて原稿を手書きするウェンディを見た瞬間、僕は彼女を見上げる立場となりました。
この映画はきっと「物語る」ことを肯定する映画です。
普段の生活がうまくできなくて、人との日常会話もおぼつかないウェンディが、唯一他者のことを考え抜き、他者に向かって全力を尽くせることが「物語」でした。
それまでのウェンディは、ときたま処理できない問題を前にすると感情のコントロールを失い、なんでもないことでも癇癪を起すという問題を抱えていました。
しかし、たどり着いたパラマウントで原稿を手渡ししようとして「手続きが違う」と断られたとき、ウェンディは初めて「癇癪」ではなく「怒った」のでした。
明確に、自分がやってきたことを侮った人間に対して、じつに正当に怒ることができたのです。
自分の決めた道を執念で歩き切り、その結末までをすぐそばで見守っていた観客には、もうウェンディが頼りない自閉症の女性には見えません。
「物語」を綴るというのは、自分の声を聴くということです。
自分という存在を見つめなおし、自分が持っているものに自信を持つことができたウェンディは、やっと姉とその赤ちゃんの元へ胸を張って帰ることができました。
この映画は音楽も自分好みで、全般的にエレクトロニカ系のBGMが淡々と流れているのですが、それがウェンディの旅を一歩引いたところから優しく見守っているような印象を与えます。
悪い奴も、ひどい事態も起こりますが、このBGMのおかげであまり悲壮にならないんですね。
スタートレック好きのダコタ・ファニングの旅、というところが気になって見てみた本作ですが、なんとも不思議な透明感に満ちたさわやかな映画でした。
秋のはじまりに見るのにオススメの作品です。
実在した超巨大サメ「メガロドン」vsジェイソン・ステイサムで話題の海洋SFモンスター映画を見て来ました。
サメ映画を見るのは久しぶりで、最近は「シャークネード」などのイロモノ映画しかなかった印象でしたが、「MEG」はなかなかどうして、しっかり正統派サメ映画やってました。
以下、ネタバレ含みレビュー書いていきます。
サメ映画というジャンルのホラー界における存在意義として、海を舞台にすることで、人間の身動きが圧倒的に制限されてしまうという点があげられると思います。
よく何かに追いかけられる悪夢を見る時、全速力で走っているのに足がついてこないということがあると思いますが、水の中でサメに追いかけられるというのはまさにこの悪夢の状況そのものなんですね。
実際問題として、「サメ」というのは他のホラー映画のモンスターと比較すれば特に強いというわけでもなく、いくら大きくても銃で死ぬし、知能も低い。
しかし、水中で身動きがとれず、しかも遮蔽物も何もない海のど真ん中で、自在に泳ぎ回るサメに襲われるという恐怖は、陸上でどんな強力なモンスターに襲われる状況と比較しても相当に大きなものです。
しかしこの恐怖感を演出しようとすると、その方法はかなり限られてしまい、そのほとんどはスピルバーグ監督の傑作「ジョーズ」で最初からやり尽くされてしまった感もありました。
そんなサメ映画の後輩たちが偉大すぎる先輩から独り立ちするために編み出した手段こそ「メガシャーク」であり「シャークネード」であり、ある意味では革新的なシリーズだったわけですが、もはやホラーとしての体はなしていません。(好きですが)
この「MEGザモンスター」は、久方ぶりに真っ向勝負の正統派サメ映画として、偉大な先達に迫ることができるか、という点がまずひとつの見どころと言えます。
本作の主演はご存知ジェイソン・ステイサム。
「トランスポーター」「エクスペンダブルズ」などでお馴染みの、基本出てくると死なない系オヤジです。
とにかく服は脱いでも主人公補正は脱がないステイサム。
劇中、ステイサムがメガロドンに向かって生身で泳いでいくというひどい場面があるのですが、その時でさえただよう安心感たるや。
下手すると勝ってしまうのではと逆にハラハラします。
あ、各所で言われていますが、元飛び込み選手だったステイサムのフォームはやはり綺麗でした(笑)
あと、子供に見せる笑顔がイイですね。
そういう意味では、「主人公の危機にハラハラする」という場面においても我々はステイサムに全幅の信頼を置いて見ていられるので、ホラーの醍醐味もなにもあったものではありません。
ただ、その副作用というか、脇役の死にそう度がいっそう際立つ結果となっており、そっちではなかなか気を揉ませるのがうまい演出となっています。
もっとも、一番ハラハラしたのがワンコがメガロドンに追いかけられてる場面だったので、不安を煽る演出がうまかったかと言われると「それなり」というしかありません。
逆に言えば、あまり気を張らずにポップコーンをぱくつきながらでっかいサメが暴れるさまをながめられる映画ということもできますね。
でかいサメはそれだけで見ていて飽きませんんが、この映画のもうひとつの見どころとして近未来的な潜水艇などのガジェットの魅力があります。
昔はガンダムでしか見られなかった全面モニター式の操縦席が、ほとんど現代の設定の作品で違和感なく投入されているのがたまりませんね。
もっとも、このモニターはホラーとしてみると閉塞感に欠けるので、やはり近未来海洋サファリ体験として見たほうがこの映画は楽しめるような気がしてきました。
クジラもいるしね!
それにしても、この洗練された最新ガジェットを運用して違和感のない中国。
「神舟」計画で宇宙分野での技術の大躍進を見せつけた中国ですが、いまやハリウッドの認識においても最新ガジェットの担い手というイメージへと変わってきているんですね。
「トゥームレイダーファーストミッション」における日本を扱う手つきの雑さと対照をなしているような気もします。
総評としては、久々の正統派サメ映画として手堅く作ってある反面、突出した部分もない「良作」どまりの映画という印象でした。
ただやはり売りであるメガロドンの巨大な「口」の演出は、巨大なものへの根源的な恐怖と興味を煽りますし、古代に実在した怪物を現代文明と出会わせるという意味での画面作りは大成功していたと思います。
特に海水浴中の人々の真下をよぎる巨大なメガロドンの影という空撮にはワクワクしました。
すれっからしのオタクには恐怖感は足りない作品だと思いますが、そうでない人には十分怖い良質なサメ映画かと思います。
木村拓哉と二宮和也のW主演で話題沸騰、原田眞人監督の最新作「検察側の罪人」を見てきました。
この記事では、実際に見て感じたこの映画の魅力を、極力ネタバレなしで書いていきます。
キムタクとニノの対決はどうだったか?
なんといってもこの映画を観る動機として1番あげる人が多い点は、キムタクとニノの共演だと思います。
2人の演技対決はどうだったか?
結論から言えば、素晴らしかった!
今作で2人が演じるのは検事。
木村は上司、二宮は駆け出しの部下として、共に働く間柄です。
二宮演じる沖田は、木村演じるエリート検事最上の正義を継ぐと自負しているほど彼に心酔しています。
最上もまた沖田の能力を買っていて、2人は理想の上司と部下といえる間柄です。
この2人の関係が、発生した殺人事件の調査線上に浮上した松倉という人物を巡り、ゆっくり狂い出します。
最上は法に逆らってでも自分の正義を貫こうとし、沖田はあくまで真実を重視すべきと主張します。
キャラクターとしては、木村は厳しくも激することのない大人の男、二宮は駆け出しながら有能、しかし時に感情に任せて激する若手という感じ。
あくまで木村が上というスタンスではありますが、しかしニノの、被疑者を前にした時のくせ者感もまた印象深く、ただの木村の子飼いという感じは全くありません。
そして木村拓哉もまた新境地といった演技で、今作の木村は全くヒーローとは程遠い存在です。
一見スマートでやり手のエリート検事の役どころかと思えば、中盤から後半にかけて、こんなキムタク見せていいのか、というような「激しい」演技を見せています。
はっきりいって、かっこ悪いんです。
この映画の根底に関わるシーンなのでネタバレなしでは説明できませんが、この「かっこ悪いキムタク」なくしてこの映画のテーマは語れなかったと思います。
名匠原田監督が選んだ今作のテーマ
この映画のテーマは各所で「正義とは何か」だと語られていますが、僕が見た印象はちょっと違っていて、「本当の正義なんてあるのか?」というほうがしっくりくるのです。
劇中、木村演じる最上は、松倉を裁きたいあまりに「ある行動」を起こします。
この行動を糾弾するのが本作の二宮演じる沖田の役どころとなるのですが、彼は「真実こそが正義」と信じていて、敬愛する最上を相手にしてもそれを曲げません。
では沖田に何ができたのか?
いや、立場を全く違えながら、同じく正義を標榜する二人それぞれに、何かをやり遂げることができたのか?
結末は実際に見てのお楽しみとなりますが、ここではその2人の「正義」を取り巻く不穏な背景にだけ言及しておきます。
今作で登場する不気味な犯罪者、松倉。
しかし、さらに不気味で巨大な存在が随所に顔を見せます。
最上の親友、丹野議員が戦う相手、高島グループです。
太平洋戦争を肯定し、日本を戦争国家に戻そうという思想を持つ勢力ですが、こんな思想の持ち主が実際に政局の重要な位置を占めているという危機感が、この映画の通奏低音のように流れています。
「悪」はどうしようもなくはっきりと見えています。
しかしその悪に対する正義の姿が見えない。
確かだと思った正義を成そうした時、気づけば自分も悪の側にいる。
「ただ一つの確かな正義」を求めたときに起こるこの矛盾、その危険性こそ、この映画最大のテーマなのかもしれません。
同じく「正義」を求めながら、最上も沖田も最後まで振り回され、行動は首尾一貫せず、頭を掻きむしって苦悩します。
その様はドストエフスキー「罪と罰」の物語に酷似しながら、しかし非常に現代的でもあります。
キムタクとニノの「対決」として売り出される今作ですが、それはある意味間違いありません。
しかしこの2人は強い信念を元に行動するものの、その行動のもたらす結果に戸惑い、迷ってばかりいます。
さらに独自の目的を持ち動く橘(吉高由里子)、独特の原理で動く裏社会の執行者ともいうべき諏訪部(松重豊)らも絡み、世界の複雑さ、複層性が描き出されます。
単純な信念の対決という構図だけでは測れない、「悪」との戦いが「正義」には難しくなってしまった社会。
それが、この「検察側の罪人」が描き出した現代社会の姿でした。