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しばらく釘は見たくない。「クワイエット・プレイス」ネタバレなしレビュー

「音を立てたら、即死。」
実にシンプルでわかりやすく、それでいてかなりの理不尽っぷりを感じるコピーです。
映画「クワイエット・プレイス」は、音に反応する怪物によって滅亡の危機に瀕した世界の片隅でひっそり生存する家族が、いかに沈黙を保ちながら生活していくかを描いたホラームービーです。

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監督ジョン・クラシンスキーは父親役として出演もしており、役者としてはトム・クランシー原作のドラマ「ジャック・ライアン」で主演を務めることが決まっており、今後の活躍が要チェックなお人ですね。
今作で夫婦役として共演のエミリー・ブラント(「ボーダーライン」)は実生活でも夫婦だそうです。
聾唖の娘役に実際に同様の障がいを持つ俳優ミリセント・シモンズ。
弟役にノア・ジューブ。
とにかく出演陣の演技が素晴らしく、音を出してはいけないという特殊で理不尽な生活環境への適応、常に死と隣り合わせであるというストレスなどをリアリティ満点に演じています。
脚本を監督・出演でもあるジョン・クラシンスキーが自ら書き、また原案としてスコット・ペック、ブライアン・ウッズがクレジットされています。
製作には「ミスター派手映画」マイケル・ベイが名を連ねますが、映画にはマイケル・ベイ色は一切ありません。
彼の設立によるホラー製作会社「プラチナム・デューン」が製作しています。
そして本作ではかなり本質的に重要な役割を担う音楽を「スクリーム」「バイオハザード」などを手がけたマルコ・ベルトラミが担当。
このあたりの配役が実に露骨にホラーしてますね。
 
この記事ではネタバレを避けて感想や観るうえでのポイントを述べていきますので、観ようと思ってるけどどんな感じかな、と思ってる方はぜひお読みください。

あらすじ

音に反応し人間を襲う“何か”によって荒廃した世界で、生き残った1組の家族がいた。
その“何か”は、呼吸の音さえ逃さない。誰かが一瞬でも音を立てると、即死する。
手話を使い、裸足で歩き、道には砂を敷き詰め、静寂と共に暮らすエヴリン&リーの夫婦と子供たちだが、
なんとエヴリンは出産を目前に控えているのであった。
果たして彼らは、無事最後まで沈黙を貫けるのか――?

「音」をめぐる恐怖演出

ルールはシンプル、「音を立てたら死ぬ」。
正確には、ささやき声やすり足程度の音なら平気ですが、普通の発声や物を落とす音などはほぼアウトです。
「声や音を立ててはいけない」というシチュエーションそのものは恐怖演出の常套手段ですが、それが一時的でなく、生活の常態となってしまったとしたら。
それが「クワイエット・プレイス」の描きたかった世界です。
この作品の真の主役は「音」そのものです。
音を立てたら死ぬということは、何をしたら音が出るかということを全面的に見直す作業でもあります。
そうして実際に見つめなおされた結果、この映画にはかつてないほどの「音」に関するアイデアが盛り込まれています。
床が軋む音はもちろん、洗濯の水音、草をかき分けるガサガサという音のひとつひとつが怪物を呼びかねず、常にアウトとセーフの閾値を手探りする状態です。
手が滑ってランタンを転がしただけで一家が全滅しかねない。
そんな世界において、しかも長女は生まれつき聴覚に障がいを抱えているのです。
音を立ててもわからない人間が、音を立てると死ぬ世界で生きる。
ザ・無理ゲー。。
また、母親は出産もします。
とにかく危険です。
いきむ声、赤ん坊の産声、どれひとつとっても到底見逃されない音です。
この映画のまず第一のツッコミどころといってもいいのが、この妊娠・出産ですね。
「やめておけ」という空気で全劇場がひとつになります。
しかし恐怖演出という点について、この出産というアイデアは実に秀逸でした。
「酸素ボンベ付き防音ベビーベット」とかいう無茶なシロモノが出てきた時点で「なるほど」と思うわけもなく嫌な予感全開。
流れからだいたい想像できるとは思うのですが、しかし恐らく想像を超えてえらいことになっていきます。
僕はこの「出産」シーンの間、いつのまにか肘掛を握りしめ、顔は硬直し、呼吸も忘れていました。
ほとんどギャグのような、ふんだり(!)蹴ったりどころではない、極悪ピタゴラスイッチのようなひどい災難に見舞われたうえ、声一つあげてはならないという、「もう泣かせてあげて」と見ている側が懇願したくなるような、映画史屈指の悲惨なシーンとなっていますので、ぜひ劇場でご覧ください(笑)
この映画はとにかくシンプルに、「音を立てないようにしている人間に音を立てさせるには」というアイデアが悪魔的にうまいのです。
 

世界の終わりに夢見る家族像

世界の状況について、映画はほとんど説明しません。
父親が壁に貼っている新聞記事のみがかろうじて断片的に状況を語ります。
世界中に音に反応する怪物が現れ、人類は滅亡寸前のようです。
一家以外に生存者がいるのかもわかりません。
ライフラインは全滅。
何の希望もないまま、一家はその日その日を生き延びていきます。
しかし、そんな特殊な状況においても家族は家族であり、家族だからこそのすれ違いも抱えています。
この映画は、ある意味で理想の父親・母親を、助け合う理想の家族像を描いており、さらにうがった見方をすれば、世界が終わりに差し掛かって初めて、父親が理想の父親になれたというお話でもあります。
父は常に家を守り、息子に生き残る術を教え、娘の問題につきっきりで取り組みます。
会社の仕事に忙殺される日常ではもはや夢見ることも叶わない父親像が、世界が壊れたことで初めて可能になる。
アポカリプス後の廃墟に満ちた世界に、絶望感だけでなく、そこでの生活にちょっとワクワクしてしまうのは僕だけではないはずです。
ジョン・クラシンスキーが、他ならぬ妻エミリー・ブラントとの共演においてこうした父親像を描いているのは、偶然ではないでしょう。
 

ホラー映画史に残るのは間違いなし!

久しぶりに劇場で見たホラー映画となりましたが、いやあ、しんどかったです。
90分と短い上映時間に、これでもかと詰め込まれたスリル演出。
映画館という特殊な空間を最大限に活用した「音」に関するアイデアの数々は、やはり劇場でしか味わえない種類のものかと思います。
映画館という場所は、静かにしていなくてはいけない場所です。
つまり、自動的に我々観客と劇中人物の心理は同期してしまい、いつのまにか作品世界に入り込んでしまうんですね。
設備うんぬんの問題でなく、「映画館で映画を観る」という行為そのものを作品に取り入れるという着眼点にとにかく脱帽です。
4DXでも3DでもVRでもない、新たな「体感」型ムービー。
ぜひ、この作品は静まり返った劇場でご覧ください!

 

 

ベトナム戦争、新聞、女性。「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」レビュー

1971年、ベトナム戦争への批判が高まるアメリカで全国紙ニューヨークタイムズがスクープした機密文書「マクナマラ文書(ペンタゴンペーパーズ)」。
文書にはベトナム戦争の戦況の詳細な分析が書かれていて、「ベトナム戦争は有利に進んでいる」と喧伝していた政府の欺瞞が明らかになりました。
映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」(原題「The Post」)は、この「ペンタゴン・ペーパーズ」報道を巡る政権と新聞各社の対立を背景に、当時まだ地方紙に過ぎなかったワシントン・ポスト紙が機密文書の記事掲載を決断し、政権の圧力と対決していくまでを詳細に描いていきます。
 
あらすじ
1971年、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内には反戦の気運が高まっていた。国防総省はベトナム戦争について客観的に調査・分析する文書を作成していたが、戦争の長期化により、それは7000枚に及ぶ膨大な量に膨れあがっていた。
ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。
ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。
しかし、ニクソン大統領があらゆる手段で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…報道の自由、信念を懸けた“決断”の時は近づいていた。

                                                (公式サイトhttp://pentagonpapers-movie.jp/より)

 
監督はご存知スティーブン・スピルバーグ。「レディ・プレイヤー1」と今作が全く同時期の作品であるという事実が、彼の化け物じみた引き出しの多さを物語ります。
脚本はリズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー。ジョシュ・シンガーは「ザ・ホワイトハウス」など主にテレビシリーズで活躍する脚本家。
音楽は「スターウォーズ」なども手掛け、スピルバーグとのタッグもお馴染みの生けるレジェンド、ジョン・ウィリアムズ。
撮影ヤヌス・カミンスキー(「プレイベート・ライアン」など)
 
本作は大まかにいって3つのテーマを語っています。
1、権力とメディアの関係について
2、1970年代のアメリカの新聞社の実態と歴史
3、女性の社会進出の萌芽
 
以下、順に見ていきたいと思います。なお、この映画は歴史的な事実をもとに作られているので、ネタバレが鑑賞の際に大きなキズとなるとは思いませんが、文章中に核心に触れる部分もあるので、未見の方は予めご了承のうえお読みください。
 

1、権力とメディアの関係について

この映画は、ベトナム戦争についての政府の欺瞞を暴くことになった機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」が新聞社に漏洩し、ニューヨークタイムズが大きくスクープした事から物語が動き出します。
ライバル紙に遅れをとったワシントン・ポストの編集主幹ベンは、こちらも「ペンタゴン・ペーパーズ」を手に入れようと動き、ひょんなことから文書を手に入れてしまいますが、文書作成者マクナマラと友人関係にある発行人キャサリンは掲載に反対します。
結局手に入れた文書もまたニューヨークタイムズに先に掲載されたことでお流れとなりますが、今度は情報漏洩者であるダニエルと昔同僚であったバグディキアンが、文書全部を入手してベンの自宅に持ち込みます。
そこへ、時のニクソン政権よりニューヨークタイムズへ、憲法発足以来初となる記事の差し止め命令が出されます。
この状態でポスト紙が文書に関する記事を掲載すれば、様々な罪に問われるばかりか、上場してついたばかりの投資家達も離れていき、会社の存続の危機となります。
経営幹部はほぼ全員が反対、友人マクナマラも危険だとして止める中、キャサリンは「報道の自由」を貫くために掲載を決断します。
当然ニクソン政権はポスト紙へも差し止め命令を発した上で提訴。
ところがここで思わぬ事態が起きます。
アメリカ中の新聞各社が、ポストに続けとばかりに文書に関する記事を掲載。
事態はニクソン政権vs全アメリカ新聞社という様相を呈していきます。
そして迎える最高裁判決で、新聞側は勝訴。
「報道が仕えるべきは国民。統治者ではない」とする判事の声明が出されます。
この判決はこの後のアメリカにおけるメディアと権力者の関係を決定づける重要な指針となっていきます。
トランプ大統領が自身に不都合な報道を流すメディアを攻撃する現在のアメリカでこの作品を発表する意味はもはや言葉にするまでもないですが、アメリカのみならず、ナショナリストが台頭しつつある世界情勢に対するメディアへの奮起を促すメッセージともとれます。
 

2、1970年代アメリカの新聞社の実態と歴史

この映画は「ペンタゴン・ペーパーズ」をめぐる報道についての映画ですが、同時に原題「the post」が表すように、地方紙ワシントンポストがこの報道を機に全国紙へのし上がっていく「シンデレラストーリー」でもあります。
映画のほぼ全編は新聞の編集部や編集風景で満たされ、パソコンや携帯電話がなかった時代の、アナログで手際いい作業風景が映し出されていきます。
タイプライター、大量のタバコ、黒電話、気送管。
編集者や記者の仕事ぶりは眺めているだけで気持ちよく、仕事へ耽溺する人々を眺める快楽が味わえます。
スピルバーグは、アナログな仕事の段取りをテンポよく撮る天才であり、短くまとめられた脚本とあいまって一種音楽的な楽しさがあります。
新聞映画というと邦画では「クライマーズ・ハイ」を思い出しますが、あそこまで社内対立が露骨に描かれることはなく、所々意見を戦わせながらも全体としてはチームワークを発揮して大きな仕事を成し遂げていくという筋立てなので、鑑賞後はスッキリしています。
映画の最後に「ウォーターゲート事件」を思わせる描写が出てきますが、ニクソンの支持者が民主党本部へ盗聴器を仕掛けるというスキャンダルを報道し、ニクソンを退陣へ追い込んだのが、全国紙となったワシントンポストでした。
 

3、女性の社会進出の萌芽

主役の1人であるポスト紙発行人キャサリンは女性ですが、1970年当時、女性の社主というのは異例でした。
まして彼女はビジネスウーマンとして歩んできたわけではなく、夫の自殺によって45歳で突然その座につくまでは家庭を守る「普通の女性」として暮らし、働きに出たこともなかったといいます。
この映画は、そんな素人じみたキャサリンが大きな決断を下せるようになるまでの成長物語でもあり、また現代において女性が次々と社会進出を果たすようになる、その前段階の芽生えの時期を映し出してもいます。
映画が始まってからのキャサリンはどこか自信なさげで、見慣れない資料と格闘し、男性ばかりの会議で居心地悪そうにしています。
決して声を荒げることもなく、相手を説き伏せるということもありません。
しかし、「ペンタゴン・ペーパーズ」を巡る騒動の中で徐々に社主としての自覚を、さらには報道が社会に果たすべき義務をただ1人見失うことなく、ついに周囲の反対を押し切って記事掲載を決断します。
この落差を、決して大袈裟にすることなく、全く自然にメリル・ストリープは演じ切ります。
戦う女性を描くときにやりがちな、過剰なプライド、叫ぶ演技、壮絶な口論は、メリル・ストリープ演じるキャサリンには縁遠く、あくまで夫を支えてきた奥ゆかしい女性の延長に今の彼女があることがリアルに演じられています。
ところで、この時代の女性の立場をよく表すシーンが、大勢で会食しているところ、男性が政治の話題を持ち出すと女性はこぞって別室へ移動していくという場面です。
女性社主としてのキャサリンの異例さをよく表現しています。
ラスト近く、最高裁の審議を終えて建物を出たタイムズの人々を報道陣が取り囲むなか、キャサリンを静かに迎えたのは多くの女性でした。
ベトナム戦争では主に夫や息子を送り出し、帰りを、あるいは戦死報告を待つだけの立場であった女性達は、ベトナム戦争の欺瞞を暴き、毅然として権力と戦うキャサリンを、ただ無言で優しく労います。
戦争は、良くも悪くも社会構造にも大きな影響を及ぼします。
ベトナム戦争もまた、社会の参加者としての女性の役割について再考を促し、キャサリンの姿はその象徴となったことを、このシーンは表しているようです。
ところで、ポスト紙に続いて全国各紙が文書の記事を掲載していることをベンがキャサリンに報告するシーンで、ベンは「皆あなたに続いて掲載した」と言います。
「我々に」ではなく、「あなたに」と言ったところに、傲岸な編集長が社主の決断へ贈る最大級の賛辞が読み取れて、僕はこのシーンが大好きです。
最高裁での勝訴のあと、さらに続くであろうニクソン政権との戦いについて、そして仕事そのものについて、キャサリンは盟友ベンと朗らかに語り合います。
そして戦いは、ニクソンを退陣へ追い込むウォーターゲート事件へとつながっていくことを示唆し、映画は終わります。
 
スピルバーグの「社会派」モード最新作ということで、鉄板であることはわかっていましたが、やはり面白かったです。
タイムリーで露骨すぎるほどのメッセージ性に注目されがちですが、やはりスピルバーグの真骨頂は画面作りの面白さ。
アナログ時代の新聞社をほとんどフェチの域に達したこだわりで完全復活させ、当時働いていた編集者をして「私の職場だ」と涙ぐませたのは流石です。
よく動き、よく働く人物たちは眺めているだけで気持ちよく、また物語もすっきりと頭に入ってくる構成で、ベトナム戦争をめぐる当時のアメリカの空気がすんなりと飲み込める映画になっています。
最近アメコミ映画や巨大サメ、プレデターと、面白いけどちょっと癒し系ばかりだった気がしており、どっしりした映画映画したのを見たい気分だった自分にはぴったりはまりました。
 
 
 
 

 

 

 

 

「プレデター」の新たな可能性を切り開いた!「ザ・プレデター」ネタバレ感想

宇宙船で空を駆け、強者を狩ることに喜びを見出す最強のクリーチャー「プレデター」。
「プレデター」が登場する作品としては通算6作目となる最新作「ザ・プレデター」を観てきました!
「プレデター」シリーズらしい血みどろの残酷描写と、「リーサルウェポン」を生み出したシェーン・ブラック監督らしいブラックなコメディが悪魔合体した、実に奇妙な傑作に仕上がっていました。
以下、ネタバレを交えつつ、全体としては陽気な雰囲気に包まれた今作の根底にある問題意識がなんであったのか、また今作が今後の「プレデター」シリーズに遺したものなど考察しつつ、感想を述べていきます。
 

社会からはみ出した者たちの戦い

物語はアメリカ特殊部隊の凄腕スナイパーである主人公クインと、戦争で心に傷を負ってドロップアウトした軍人たち(通称「ルーニーズ」)が、プレデターと、さらにはプレデターに関する「何か」を追い求める特殊機関「スターゲイザー」の追っ手と戦っていくというものです。
 
とにかくキャラクターが素晴らしい。
全編にわたって呼吸するように下ネタを発する「ルーニーズ」。
 
 終わってから振り返ってみても彼女がプレデターを追いかける理由が「好きだから。」以外見当たらない残念系美人生物博士ブラケット。
 
学校生活に適応できないけど概ね超ハイスペックなクインの息子ローリー。
彼らに囲まれると常識人にしか見えない凄腕スナイパーの主人公クイン。
彼らが即席チームを組んで、プレデターや人間の追手を相手に抜群のチームワークで立ち回ります。
 
主人公側の人間たちは皆さまざまな意味で社会や組織に適応することに失敗した人間たちです。
優秀な軍人ながら家庭生活がうまくいかない主人公クイン。
全員が戦争で何らかのPTSDを抱えている「ルーニーズ」。
物語のキーパーソンとなるクインの息子ローリーは発達障害を抱えており、大きな物音がするとパニックに陥ったり、いじめられっ子にまとわりつかれたりと、学校生活がうまく送れません。
そんな彼らが、プレデターの出現とともに戦場と化した街で、むしろ生き生きとして躍動するさまが描かれます。
ローリーは社会生活への適応は苦手ですが、人並み外れた記憶力を持ち、またプレデターの装備の操作方法を独力で解明するほどの頭脳を持ちます。
作中、「専門家の中には、発達障害は障害ではなく、進化の1ステップだという人もいる」という台詞もあります。
(事実、クライマックスにおいてプレデターはローリーこそ地球で最も優れた戦士だと判断して連れ去ろうとしています。)
 
地球人類がプレデターと戦うとき、通常兵器が効きにくい相手と戦うために「相手の武器を奪い、使う」ことが重要になってきます。
いうまでもなく高度な応用力、適応能力が必要になりますが、このミッションに挑むのがほかでもない、日常生活に上手く適応できない彼ら「はみ出し者」であるというのが、本作最大にして痛快な皮肉であると思います。
 
さらには、今作で最初に登場した「プレデター1号」もまたプレデター社会からの異端者であり、しかも人類を救うためにやってきたことが判明します。
この映画では、こういった「社会生活からはみ出さざるを得ない者たち」というモチーフが随所に現れ、「はみ出す」=「悪いこと」ではないというメッセージが読み取れます。
「社会に適応する」というのは、突出した部分を持つ人間ほど「削る」作業が求められがちであり、それがうまくできないからといって「劣等生」のレッテルを貼られてしまう人間は、アメリカにおいても未だに多いのでしょう。
優れた能力をうまく「削る」ことができず、日常生活から弾き出された人間たちが、非日常の中で活き活きと活躍できる場を見つけ、或いは死に場所をも見つける。
横溢するバイオレンスとブラックジョークの奥底に、そんな切ないファンタジーとしての側面も持っているのが今作の魅力です。

明らかになったプレデターの謎

今作の「プレデター」シリーズとしての設定上の重要な点は、「なぜプレデターには様々な容貌や種類が存在するのか」という謎への答えが提示された点でしょう。
彼らは星々をわたって狩りをしながら、もっとも優れた戦士の脊髄を摘出し、そのDNAを自らに取り込むことで、より強靭な肉体を手に入れてきたのでした。
これにより、1作目のプレデター(ジャングルハンター)と2作目のプレデター(シティーハンター)の牙の本数の違いや、「プレデターズ」におけるバーサーカーのような大型の個体と小柄な原種のような違いがなぜ発生するのか、理由がつくことになりました。
今作で最初に登場する「プレデター1号」の容貌は1作目のものと酷似しており、彼は遺伝子による身体変化を拒否していたものと考えられます。(確か牙の本数も1作目のジャングルハンターと同じだったような)
「プレデターズ」で囚われていた原種もまた似た立場の一派であり、遺伝子による強化を行うバーサーカー種族と対立していたのではないでしょうか。
彼らは「自然保護派」とでもいうべき主張の持ち主であり、「ありのまま」の自分たちを尊重して遺伝子操作による強化に反対し、また地球を住処にしようとする連中から地球を保護しようとする過激な活動家のようなものだと考えるとしっくりきます。(「ガンダムSEED」のナチュラルとコーディネーターを連想しますね)
もっとも「自然保護派」だからと言って個々の人間を愛でるような趣味はなく、あくまで「美しい快適な狩場」を守るためというところでしょうが。
「地球を守りにきたやつがなんで冒頭で人を殺しまくってるの?」という疑問がわきますが、まあそこはプレデターなんで「つい体が闘争を求めちゃって」ということなのでは……。
(そういえばプレデターさん、武器に自動反撃システムなんて使ってるのにほとんど人間に使われちゃって、セーフティ機能ガバガバすぎでは。)
 

気持ちのいいシークエンス満載で時間が短く感じられた!

アクション映画としてもテンポよくテキパキとこなされていくシークエンスはスピード感抜群で、大柄ながら敏捷なプレデターという設定はシリーズでもっとも表現されていたと思いました。
1作目で、スーツが重すぎるのでサルに色を塗ってジャンプさせようとしたら森の奥へ逃げられたという涙ぐましいエピソードを経て、人類はプレデターを軽々と走らせる技術を手にしたのです。
とにかく敵味方全員の動きがプロフェッショナル感に溢れた洗練された動きを見せてくれるので気持ちいいんですね。
頭は空っぽの連中だけど戦闘IQは高いというか。
捕まっていたプレデターが徒手空拳の状態から人間の武器も使って基地を壊滅する様は、ジャック・バウアーに銃が効かなかったらこうなんじゃないかと勝手に想像しました。
あの口を使って噛みつき攻撃をするのもなにげに初かな?
それと、翻訳機を使ってプレデターがとうとう「録音」ではない言葉を喋るシーンは、これまでの人類とプレデターの歴史を思うとなかなか感慨深いものがありました。
 
もはやプレデターを「ホラー」として描くのは難しいのではないかと、前作「プレデターズ」を見返しながら思っていましたが、今作はその回答を、「プレデター」を描く新たな切り口と可能性を見せてくれます。
プレデターの正体が次々と明らかになっていくにつれ、「未知への恐怖」は惹起しようがなくなってきた代わりに、その設定を生かした「ダークヒーロー」としてのプレデターが立ち上がってきたように思います。
ラストが完全に「アイアンマン」だったのはご愛嬌(笑)
果たして「スーツ」を使っての続編はあるのか!?
期待して次作を待ちましょう。
 
 
 
 

 

 

 

 

日本でアベンジャーズは可能か?日本のクロスオーバー文化を見る

レンタルが始まった「アベンジャーズ/インフィニティウォー」を見て、やっぱり「アイツも出る!こいつもいる!」というオールスター感はたまらなく楽しいと思いまして。

 

で、やはり考えてしまうのが、「日本でアベンジャーズのような映画は作れないのか?」ということ。

「アベンジャーズのような」とはどういうことか?

・各々が独立した作品でそれなりの人気と知名度を持ったキャラクターがクロスオーバー

・物語にがっつり絡み、他のキャラクターとがっつり共演

・個々の関係性の物語が全体としての大きな結末へ向けて進んでいく

というのがおおよその要素かなと思っています。

 

というわけで、現状の日本のクロスオーバー文化を知る限りで挙げていきつつ、上記のような作品が日本で生まれる可能性を探ってみたいと思います。

 

ジャンプオールスターは映像化可能?

まずは週刊少年ジャンプ。

映画「アベンジャーズ」はマーベルコミックのキャラクター達の実写化及びクロスオーバー作品なのだから、日本版アベンジャーズといえばやはりジャンプヒーローのオールスターを真っ先に夢想しますね。

しかしマーベル作品とジャンプ作品の大きな違いは、マーベル作品が「同じ世界を共有している」のに対し、ジャンプ作品は個々に独自の世界設定を持っている点です。

アイアンマンとスパイダーマンがすぐ隣に住んでいるような距離感なのに、悟空とルフィは次元を超えてようやく会える。

やはり彼らを「同じストーリー上で」共演させるのにはこの点がネックになるでしょう。

 

実はジャンプオールスター的な企画はゲームではかなり展開しており、古くは「ファミコンジャンプ」、最近では「ジャンプフォース」が開発中です。

しかし、漫画なりアニメなり、しっかりストーリーを作り込んだ物語での共演は、今のところ難しそうです。

(「ジャンプフォース」は異世界に飛ばされたヒーロー達の物語らしいので、物語も期待できるかもしれません)

 

日本のゲームにおけるクロスオーバー事情

ゲームでのクロスオーバーでいえば日本は海外に比べ圧倒的に進んでいます。

今日本で知名度的にも最も大きなクロスオーバー作品といえば「スパロボ」と「スマブラ」でしょう。

 

「スパロボ」は、メカモノであるならばほぼ全ての作品を物語に取り込むことができる異常な懐の深さを持っています。

物語としても、各作品のキャラクターと設定が絡み合い一つの大きな結末へ向かうというものです。

先に挙げた「アベンジャーズ」の条件を現在最も満たしているのは、実はこの「スパロボ」シリーズと言えるかもしれません。

ただやはりゲームだから出来ているという側面はあるだろうし、これをそのままアニメとして作ることができるかというと難しいのでしょう。

 

「スマブラ」もやはり日本が世界に誇る大型クロスオーバータイトルで、今や任天堂どころかゲーム業界のオールスター出演といった感もありますが、「物語」ではありませんので、「アベンジャーズのような」という定義からは外れますね。

もちろん参戦キャラ発表時のファンの熱狂は大好きですが(笑)

ゲームは大好きですし、これらの作品を全く否定するものではないのですが、やはりテキストではなく、肉声で、バリバリ動きながら台詞が絡み合うクロスオーバーを見たいというのが正直な欲望です。

 

日本のヒーローは世知辛い?

では日本が誇る正義のヒーロー、仮面ライダーやウルトラマンではどうか?

どうか?というか、もう散々やってますね。

日本版アベンジャーズに最も近いのはこれらの作品群でしょう。

毎年夏には各ライダーがクロスオーバーする劇場版が公開され、近年は戦隊まで取り込んでの一大ヒーロープロジェクトとなっています。

ウルトラマンは、世界観を共有しつつ個々の作品が作られていった、ある意味で最もマーベルコミックに近い成り立ちのタイトルでもあります。

 

実は日本ではすでに日本版アベンジャーズがいくつも公開されていた、という結論になりそうですが、今ひとつ納得いかないのはなぜでしょう。

日本の特撮界が素晴らしい仕事をコンスタントに送り出している人材の宝庫であることを承知の上で言ってしまうと。

やはり、規模が。

僕は特撮マニアというわけではないので詳しくは知りませんが、どうやら予算が相当カツカツのようで、どうしても今のライダーやウルトラマン映画は、ハリウッドや日本の「大作」に比べれば「大作」とは言えません。

(出来のよしあしとはまた別の問題です)

 

アベンジャーズがアベンジャーズたる所以の最後の条件として、やはり「超大作であること」があると思うんですね。

他の映画と同じ1800円で、その映像が観れるというこの上ない贅沢感。

これは、映画の良し悪しとは別ベクトルの贅沢感です。

 

同規模とは言わない、せめて「いぬやしき」や「るろうに剣心」レベルの制作費で平成オールライダーとかやってくれたら、それこそ日本のアベンジャーズになり得ると思うのですが、どうなんでしょうか。

スーツだけでなく中の人をオリジナルキャストで集結出来ればかなり豪華感が出ることはこの間の劇場版でわかりましたし、もし歴代平成ライダー中の人全員集合できたら、もうアベンジャーズとかどうでもいいレベルで興奮すると思うんですが……。

 

そういえば「HiGH&LOW」劇場版を見ていた時、平成ライダーに予算をブッ込んだらこんな感じになるかもなーとぼんやり思っておりました。

源治とか完全に怪人でしたね。

 

オールスターに向かない戦争もの

世界観を共有しつつ、違うクリエイターが個々の作品を作り続けているコンテンツには、例えばガンダムの宇宙世紀ものがあります。

1年戦争を舞台にした物語はそれこそ無数に作られ、いわゆる正史のキャラがカメオ出演するようなクロスオーバーは随所で見られますが、アベンジャーズ的なオールスター感とは相性が悪いでしょう。(やはりその辺の欲望はGジェネやスパロボなどのゲーム作品がカバーしています。)

 

期待の新ユニバース「Fate」

もう一つ、いわゆるシェアードワールドの手法でコンテンツを拡大している作品が「Fate」シリーズです。

近年はFGOがすっかりメジャーなゲームとなりましたが、そもそもの原作の奈須きのこ「Fate/Stay night」の他、虚淵玄作による前日譚「Fate/ZERO」や三田誠「ロードエルメロイ2世の事件簿」などなど、複数のクリエイターが同じ世界観を共有しつつ独自の作品を発表しています。

これらはもともと同人作品であったこともあるのでスピンオフの要素が強いが、「Fate/Apocrypha」や「Fate/EXTRA」ではパラレルワールドが舞台になるなど、独自の展開を見せる作品もあります。

さらに言えば、「Fate」世界は奈須きのこによる「月姫」や「空の境界」とも世界観を共有しており、これら関連作品のキャラクターが一堂に会すれば、相当のオールスター感が出るのではと期待してしまいます。

(「カーニバルファンタズム」がありますが、ガチアクションも見たい!)

FGOはオールスター感がありますが、やはり映像作品でのクロスオーバーを見てみたいですね。

このシリーズの場合、映像化の前にまずそういった小説なりテキストが生み出される必要があると思いますが。

「様々な英雄を一堂に集めて戦わせる」というFateのシステム自体がすでにオールスター的ともいえるので、今後も期待はできると思うんです。

やはり特撮界に期待か

以上見てきましたが、振り返ってみればなかなか難しい現実が待っていましたね。

逆に言えば「アベンジャーズ」がいかに巨大な物量投下による力技であるかをまざまざと教えられた気分です。

金か、金が全てか。

まあお金は大事ですよね。ほんと。

 

こうしてみると、ある時日本のヒーロー業界に風雲児が現れて、莫大な資金を投じて超豪華なオールライダーかウルトラマンを作る、という筋描きはありえそうな夢にも思えてきませんか。

 

というわけで本日の妄想はここまでにしておきます。

ゴジラvsガメラをまだ待っている筆者でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自閉症のダコタがスタートレックの脚本を届ける旅。「500ページの夢の束」ネタバレ感想

ダコタ・ファニングが自閉症の女性を演じる「500ページの夢の束」を見てきました。

あらすじ

自閉症のため人とうまくコミュニケーションができず、日常生活を送るための訓練を受けているウェンディ。

彼女は大のスタートレックマニアであり、スタートレック脚本コンテストに応募するため作品を書き上げる。

しかしトラブルから脚本の締め切り期日までの郵送に間に合わなくなり、自分の足でロサンゼルスのパラマウントピクチャーズまで届けることに。

毎日決まったルーティンをこなすだけだったウェンディの初めての冒険がはじまる。

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大人になったダコタの、少女のような演技

言わずと知れた名子役として名を馳せたダコタ・ファニング。

しかし長じてからは露出も少なくなり、僕もこの映画で何年振りかに彼女を見ました。

美人さんになって……。

しかしどこか子役時代の少女ぽさも感じられて、今回のトレッキーな自閉症女性という役どころにぴったりの配役だったと思います。

スタートレックマニアの紳士諸兄におかれては、この映画でのダコたんには萌えて萌えてしょうがないのでは。

 

スタートレックとは、宇宙船エンタープライズ号のカーク船長や宇宙人スポックなどの仲間たちが未知の宇宙を冒険するSFシリーズであり、今作の主人公ウェンディの旅もスタートレックにおける未知への旅と重ね合わされています。

スタートレック好きは「トレッキー」と呼ばれ、マニアともなれば膨大な物語や設定を語り出して止まらない一大コンテンツです。

 

ウェンディは姉家族と暮らすために日常生活の訓練を受けながら、スタートレック脚本コンテストの話を知り、一心不乱に作品を書き上げていきます。

人生ではじめて、創作という行為を通じて、自分の大切なものへと積極的に関わることを決めたウェンディ。

それは単純なファン精神だけではなく、賞金で生家を売りに出さなくて済むように、ひいては自分が再び姉と一緒に暮らせるようにするという目的もあっての行動でした。

 

トラブルのため郵送に間に合わなくなり、書き上げた脚本を届けるためにロサンゼルスへの270kmの旅を始めるウェンディ。

愛犬ピートが一緒ではあるものの、人生初の1人旅は全くスムーズにいきません。

旅の途中で出会う人々の無情さ、悪意、そして時に善意。

その割合がなんとも生々しい混ざり方で、あー、だいたい見知らぬ人の態度の割合ってこんな感じじゃないかなと思わされます。

 

「優しい眼差し」で見つめる「優しくない世界」

この映画は優しい映画ではありますが、いわゆる「優しい世界」を描いた映画ではありません。

ウェンディの挑戦を見つめるカメラの視線、つまり観客の視線は優しいものですが、ウェンディを取り巻く世界は決してウェンディに都合のいいように動いてくれるようにはなっていません。

iPodを盗まれ、乗った車が事故に遭い、大切な脚本がばら撒かれる。

多難なウェンディの旅路を、どこまでもウェンディに寄り添い、しかし決してウェンディと同化することなく淡々と外から見守っていく。

それがこの映画の「視点」です。

 

観客の「上から目線」を覆すウェンディの執念

日常生活もうまくこなせないウェンディが、旅の途中で困難に見舞われ、なんとか乗り越えて進むたびに、僕ら観客は「いいぞ、よくやってるぞ」と心中で声援を送ります。

しかし、自分でもうっすら自覚があったのですが、その立場はどこか上から目線で、「普通のことを普通にできる」という自分の立場から「えらいぞ」というニュアンスを含んだものであったことは否定できません。

そんな自分の上から目線が、明確に覆されるシーンがありました。

 

ウェンディは事故で運ばれた病院から抜け出す際に、大切な原稿を地面にばら撒いてしまい、100ページほどを失ってしまいます。

期日は翌日。

元データもなく、もうどう考えても応募は絶望的な状況で、ウェンディはなんと不足した分を別の紙に手書きで書き始めるのです。

これは、きっと僕にはできません。

家にいるわけではないのです。

もちろんパソコンもワープロも、スマホすらありません。

見知らぬ土地の道端で、先の見通しも立たないその状況で、身を屈めて原稿を手書きするウェンディを見た瞬間、僕は彼女を見上げる立場となりました。

 

この映画はきっと「物語る」ことを肯定する映画です。

普段の生活がうまくできなくて、人との日常会話もおぼつかないウェンディが、唯一他者のことを考え抜き、他者に向かって全力を尽くせることが「物語」でした。

それまでのウェンディは、ときたま処理できない問題を前にすると感情のコントロールを失い、なんでもないことでも癇癪を起すという問題を抱えていました。

しかし、たどり着いたパラマウントで原稿を手渡ししようとして「手続きが違う」と断られたとき、ウェンディは初めて「癇癪」ではなく「怒った」のでした。

明確に、自分がやってきたことを侮った人間に対して、じつに正当に怒ることができたのです。

自分の決めた道を執念で歩き切り、その結末までをすぐそばで見守っていた観客には、もうウェンディが頼りない自閉症の女性には見えません。

「物語」を綴るというのは、自分の声を聴くということです。

自分という存在を見つめなおし、自分が持っているものに自信を持つことができたウェンディは、やっと姉とその赤ちゃんの元へ胸を張って帰ることができました。

 

秋のはじめにおすすめ

この映画は音楽も自分好みで、全般的にエレクトロニカ系のBGMが淡々と流れているのですが、それがウェンディの旅を一歩引いたところから優しく見守っているような印象を与えます。

悪い奴も、ひどい事態も起こりますが、このBGMのおかげであまり悲壮にならないんですね。

スタートレック好きのダコタ・ファニングの旅、というところが気になって見てみた本作ですが、なんとも不思議な透明感に満ちたさわやかな映画でした。

秋のはじまりに見るのにオススメの作品です。

 

 

 

 

 

 

ステイサムの主人公補正は噛みちぎれない。「MEGザ・モンスター」感想

実在した超巨大サメ「メガロドン」vsジェイソン・ステイサムで話題の海洋SFモンスター映画を見て来ました。

サメ映画を見るのは久しぶりで、最近は「シャークネード」などのイロモノ映画しかなかった印象でしたが、「MEG」はなかなかどうして、しっかり正統派サメ映画やってました。

以下、ネタバレ含みレビュー書いていきます。

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追いかけられ、足が思うに任せない悪夢

サメ映画というジャンルのホラー界における存在意義として、海を舞台にすることで、人間の身動きが圧倒的に制限されてしまうという点があげられると思います。

よく何かに追いかけられる悪夢を見る時、全速力で走っているのに足がついてこないということがあると思いますが、水の中でサメに追いかけられるというのはまさにこの悪夢の状況そのものなんですね。

実際問題として、「サメ」というのは他のホラー映画のモンスターと比較すれば特に強いというわけでもなく、いくら大きくても銃で死ぬし、知能も低い。

しかし、水中で身動きがとれず、しかも遮蔽物も何もない海のど真ん中で、自在に泳ぎ回るサメに襲われるという恐怖は、陸上でどんな強力なモンスターに襲われる状況と比較しても相当に大きなものです。

しかしこの恐怖感を演出しようとすると、その方法はかなり限られてしまい、そのほとんどはスピルバーグ監督の傑作「ジョーズ」で最初からやり尽くされてしまった感もありました。

 

そんなサメ映画の後輩たちが偉大すぎる先輩から独り立ちするために編み出した手段こそ「メガシャーク」であり「シャークネード」であり、ある意味では革新的なシリーズだったわけですが、もはやホラーとしての体はなしていません。(好きですが)

この「MEGザモンスター」は、久方ぶりに真っ向勝負の正統派サメ映画として、偉大な先達に迫ることができるか、という点がまずひとつの見どころと言えます。

 

ステイサムの安心感と、反比例する脇役の不安感

本作の主演はご存知ジェイソン・ステイサム。

「トランスポーター」「エクスペンダブルズ」などでお馴染みの、基本出てくると死なない系オヤジです。

とにかく服は脱いでも主人公補正は脱がないステイサム。

劇中、ステイサムがメガロドンに向かって生身で泳いでいくというひどい場面があるのですが、その時でさえただよう安心感たるや。

下手すると勝ってしまうのではと逆にハラハラします。

あ、各所で言われていますが、元飛び込み選手だったステイサムのフォームはやはり綺麗でした(笑)

あと、子供に見せる笑顔がイイですね。

 

そういう意味では、「主人公の危機にハラハラする」という場面においても我々はステイサムに全幅の信頼を置いて見ていられるので、ホラーの醍醐味もなにもあったものではありません。

ただ、その副作用というか、脇役の死にそう度がいっそう際立つ結果となっており、そっちではなかなか気を揉ませるのがうまい演出となっています。

 

もっとも、一番ハラハラしたのがワンコがメガロドンに追いかけられてる場面だったので、不安を煽る演出がうまかったかと言われると「それなり」というしかありません。

逆に言えば、あまり気を張らずにポップコーンをぱくつきながらでっかいサメが暴れるさまをながめられる映画ということもできますね。

 

 

ふんだんに投入された最新海洋SFガジェット

でかいサメはそれだけで見ていて飽きませんんが、この映画のもうひとつの見どころとして近未来的な潜水艇などのガジェットの魅力があります。

昔はガンダムでしか見られなかった全面モニター式の操縦席が、ほとんど現代の設定の作品で違和感なく投入されているのがたまりませんね。

もっとも、このモニターはホラーとしてみると閉塞感に欠けるので、やはり近未来海洋サファリ体験として見たほうがこの映画は楽しめるような気がしてきました。

クジラもいるしね!

 

それにしても、この洗練された最新ガジェットを運用して違和感のない中国。

「神舟」計画で宇宙分野での技術の大躍進を見せつけた中国ですが、いまやハリウッドの認識においても最新ガジェットの担い手というイメージへと変わってきているんですね。

「トゥームレイダーファーストミッション」における日本を扱う手つきの雑さと対照をなしているような気もします。

 

凡作ながら安心してサメを眺められるサファリ映画

総評としては、久々の正統派サメ映画として手堅く作ってある反面、突出した部分もない「良作」どまりの映画という印象でした。

ただやはり売りであるメガロドンの巨大な「口」の演出は、巨大なものへの根源的な恐怖と興味を煽りますし、古代に実在した怪物を現代文明と出会わせるという意味での画面作りは大成功していたと思います。

特に海水浴中の人々の真下をよぎる巨大なメガロドンの影という空撮にはワクワクしました。

すれっからしのオタクには恐怖感は足りない作品だと思いますが、そうでない人には十分怖い良質なサメ映画かと思います。

 

「正義」と「真実」、どちらをとるか?「検察側の罪人」感想

木村拓哉と二宮和也のW主演で話題沸騰、原田眞人監督の最新作「検察側の罪人」を見てきました。

この記事では、実際に見て感じたこの映画の魅力を、極力ネタバレなしで書いていきます。


キムタクとニノの対決はどうだったか?

なんといってもこの映画を観る動機として1番あげる人が多い点は、キムタクとニノの共演だと思います。

2人の演技対決はどうだったか?

結論から言えば、素晴らしかった!

今作で2人が演じるのは検事。

木村は上司、二宮は駆け出しの部下として、共に働く間柄です。

二宮演じる沖田は、木村演じるエリート検事最上の正義を継ぐと自負しているほど彼に心酔しています。

最上もまた沖田の能力を買っていて、2人は理想の上司と部下といえる間柄です。

この2人の関係が、発生した殺人事件の調査線上に浮上した松倉という人物を巡り、ゆっくり狂い出します。

最上は法に逆らってでも自分の正義を貫こうとし、沖田はあくまで真実を重視すべきと主張します。

キャラクターとしては、木村は厳しくも激することのない大人の男、二宮は駆け出しながら有能、しかし時に感情に任せて激する若手という感じ。

あくまで木村が上というスタンスではありますが、しかしニノの、被疑者を前にした時のくせ者感もまた印象深く、ただの木村の子飼いという感じは全くありません。

そして木村拓哉もまた新境地といった演技で、今作の木村は全くヒーローとは程遠い存在です。

一見スマートでやり手のエリート検事の役どころかと思えば、中盤から後半にかけて、こんなキムタク見せていいのか、というような「激しい」演技を見せています。

はっきりいって、かっこ悪いんです。

この映画の根底に関わるシーンなのでネタバレなしでは説明できませんが、この「かっこ悪いキムタク」なくしてこの映画のテーマは語れなかったと思います。


名匠原田監督が選んだ今作のテーマ

この映画のテーマは各所で「正義とは何か」だと語られていますが、僕が見た印象はちょっと違っていて、「本当の正義なんてあるのか?」というほうがしっくりくるのです。

劇中、木村演じる最上は、松倉を裁きたいあまりに「ある行動」を起こします。

この行動を糾弾するのが本作の二宮演じる沖田の役どころとなるのですが、彼は「真実こそが正義」と信じていて、敬愛する最上を相手にしてもそれを曲げません。

では沖田に何ができたのか?

いや、立場を全く違えながら、同じく正義を標榜する二人それぞれに、何かをやり遂げることができたのか?

結末は実際に見てのお楽しみとなりますが、ここではその2人の「正義」を取り巻く不穏な背景にだけ言及しておきます。


今作で登場する不気味な犯罪者、松倉。

しかし、さらに不気味で巨大な存在が随所に顔を見せます。

最上の親友、丹野議員が戦う相手、高島グループです。

太平洋戦争を肯定し、日本を戦争国家に戻そうという思想を持つ勢力ですが、こんな思想の持ち主が実際に政局の重要な位置を占めているという危機感が、この映画の通奏低音のように流れています。

「悪」はどうしようもなくはっきりと見えています。

しかしその悪に対する正義の姿が見えない。

確かだと思った正義を成そうした時、気づけば自分も悪の側にいる。

「ただ一つの確かな正義」を求めたときに起こるこの矛盾、その危険性こそ、この映画最大のテーマなのかもしれません。


同じく「正義」を求めながら、最上も沖田も最後まで振り回され、行動は首尾一貫せず、頭を掻きむしって苦悩します。

その様はドストエフスキー「罪と罰」の物語に酷似しながら、しかし非常に現代的でもあります。


キムタクとニノの「対決」として売り出される今作ですが、それはある意味間違いありません。

しかしこの2人は強い信念を元に行動するものの、その行動のもたらす結果に戸惑い、迷ってばかりいます。

さらに独自の目的を持ち動く橘(吉高由里子)、独特の原理で動く裏社会の執行者ともいうべき諏訪部(松重豊)らも絡み、世界の複雑さ、複層性が描き出されます。

単純な信念の対決という構図だけでは測れない、「悪」との戦いが「正義」には難しくなってしまった社会。

それが、この「検察側の罪人」が描き出した現代社会の姿でした。